フォーラム松山



  フォーラム松山は、1988年7月31日、故酒井正則さんにより建設された映画館でした。酒井さんは、「愛媛共同映画社」という小さな映画配給会社を経営し公民館や学校で映画の上映活動を続けていました。そしてなにより映画を愛していたのだと思います。
 映画の衰退・映画館の減少傾向のなかでも酒井さんは、愛媛県松山市で世界の名作をいつでも見られる市民の映画館をつくろうと情熱を持ち続けていました。
 そして、1988年1月末、酒井さんの手により、「市民の映画館を建設する会」が結成され、市民の協力を市民の出資という形で呼びかけたところ、反響は大きく、多くの出資者の協力がありました。
 酒井さんの私財と出資者の資金を元に、1988年7月31日、フォーラム松山は、松山市河原町138番地、石手川立花橋のたもとにオープンしました。フォーラム松山は、フォーラム1,2,3の3館あり、当初、「封切館」、「再映館」、「クラシック館」と性格づけされた松山にはそれまでなかった新しいシネマビルとして出発しました。
 フォーラム松山は、他にも、それまで松山の映画館にはなかった以下のような色々な試みをしました。
 ・運営委員会による運営
 ・ロビーを映画ファンに解放
 ・フォーラムだよりという上映プログラムや映画評を載せた情報誌の発行。
 ・鑑賞会員制度の導入
 ・映画サークルの支援
 ・映画を語る夕べの開催
 フォーラム松山のオープンによる最も顕著な効果は、邦画で言えば、東宝、松竹、東映配給以外の作品が数多く松山で上映されたこと、そして洋画で言えば、アメリカ映画以外の各国の良質の作品の上映が実現したことです。
 因みに、87年、つまりフォーラムが開館する前のアメリカ以外の国の映画の公開率(松山での公開作品数を全国で公開された作品数を割ったもの)は、わずか数%でしたが、フォーラム松山がオープンしてからは、20%に達していました。
 しかしながら、観客動員数はのびず、経営的には苦しい状況が続きました。その原因は、経営努力の足りなさもあるかと思いますが、ブロックブキング等の日本映画界の特殊な配給制度や、松山の映画館を一つの興業会社が独占しているという特異な松山の状況、興業組合の古い体質といった点にも求められるのではないのでしょうか。結果的に興行的に有利な映画は上映できないといった環境がフォーラム松山の環境でした。
 そして、1989年10月23日、酒井正則さんは交通事故で突然他界されました。その後、川上社長そして橋本支配人の体制で懸命に上映を続けましたが、経営の閉塞状況は如何ともしがたく、1990年11月4日、ついに閉館となりました。
 この間フォーラムで上映した作品は287本になります。酒井さんの点した灯は、映画サークル「アゴラ」、自主上映団体「松山キネマ倶楽部」に受け継がれ、そしてなにより、フォーラムビルで1994年10月1日オープンした橋本さんのシネマルナティックに再び点りました。少なくとも私はそういうふうに思っています。その明かりは、太陽の輝きのようなギラギラしたものではなく、月の明かりのような弱々しいものですが、点り続けています。皆さんの応援をよろしくお願いします。




フォーラム復活祭へ

作品リストへ

トップメニューへ inserted by FC2 system