遠い約束


 外に出ると、視界が広い。遠く山々が見渡せた。初冬の空の青は淡く、頼りなげだ。前庭には、面会人だろうか、数人の若者がたむろしていた。人を捜して視線を動かしている自分に気がつき苦笑し、もう一度空を見上げた。

 「どうした。元気そうじゃないか」

 振り返ると、私の肩に手を掛けた青木がいた。

 「…………。 どこにいたんだ。」
 「コーヒーでも飲むか。」

 喫茶店に着くと、店の中、私を見詰める葉子がいた。青木は用があると言って出て行き、私たちは二人取り残された。窓の外で青木が手を振っていた。

 「おかえりなさい。来てくれてありがとう」
 「いや、僕はただ…。」

 言葉がみつからなかった。

 「元気そうだわ。」
 「髪は白くなった……。どうして……。僕達はもうずっと他人同志のはずじゃないのか」
 「朋子がいるわ」

 この七年間、葉子は月に一度朋子の事ばかり書いて寄こした。しかし、私は返事を書かなかった。朋子に知らせるべきものなど、あそこにあるはずがなかった。

 「私のこと、許してほしいの」
 「…………。朋子は元気か。」
 「ええ。あっそうだわ。これ、朋子と私が編んだセーター」


 三年後、一二月三十一日、一二時前、松山。葉子は、台所で年越しそばを作っている。

 「朋子、氷とシェイカー、そしてライム持っててきてくれないか。」
 「お父さん、酔っ払ったらだめよ。おそば食べたら石手寺に行くんだから。」
 「朋子も飲むか。これにソーダを入れたらジンフィズって、女の子にも飲めるカクテルだ」
 「お父さんのは?」
 「ギムレット」
 「朋子、北はこっちかな」と言って、私はベランダの方を指差した。
 「そうよ」

 カクテルグラスを持ち、私はベランダに出た。さすがに寒い。十年前の北の空とは違って晴れている。星が夜空にきらめいている。

 「ハッピー ニューイヤー」


 十年前、十二月三十一日、夜九時、札幌。 私はホテルのベットに座り、窓の外の闇を見ていた。立ち上がると、自分の顔が窓に写った。
 『フロントでは怪しまれなかった。まだ発見されていないのか』
 風が鳴っている。外は吹雪きなのだろう。雪が窓に当たり、踊っている。
 部屋を出ると、ホテルのバーに向かった。バーは空いていた。そしてあの女がいた。一人で窓際に座り、外を見詰めている。その時、隣のボックスの外人二人が彼女に話し掛けてきた。困っている様子である。私は、彼女の方へ足を運ばせた。

「Excuseme,she is waitting for me. She is my wife.」
 「All right.」

 二人は自分達の席に戻っていった。

 「座っていいかな。」
 「どうぞ。私のだんな様が他のところに座ったら、彼等おかしく思うんじゃない」
 「いや、失礼。確か結婚指輪してたから、ああ言ったほうが無難だと思って。」
 「今はしてないわ。でも、札幌まで来て松山の人と一緒だなんて……」
 「がっかり?」
 『彼女も私に気付いていたのか』
 「ええ、がっかりよ。さっきの外人さん、なかなか紳士的だったわ。ハンサムだったし。私その気になってたのに。」

 松山から羽田行きの飛行機の中で、彼女に気が付いた。私の席より一つ前の反対側の通路側の席に彼女はいた。私は前の夜一睡もしていなかったし、昨夜からの興奮状態が続いていて、他の乗客など目に入らなかったが、彼女だけは別だった。というより彼女の手だけは別だった。羽田へ着陸の時、彼女は前の席のバックシートに手を伸ばし、体を支えた。その手に私は目を奪われた。細いが、ふくらみのある指、そして緻密でしっとりとした手の甲、淡いピンクのマニキュア。猛烈に女を感じた。そして、その指に結婚リングがあった。

 「御注文はお決まりですか。」
 私はウェイターの声に我にかえった。

 「えーと、ギムレットにしようか」
 「真似しないで。」
 「いや、偶然だよ。それギムレット?僕、カクテルではこれしか知らないんだ」
 「今、何考えてたの?深刻な顔して。自殺でもしそうな顔だったわよ。」
 「正解。自殺の方法考えてたんだ。場所は決めてあるから……。冗談だよ、そんな顔して。君って、話してみると、印象が違うね」 「ガラッパチなんでしょ」

 ウェイターがギムレットを運んできた。

 「それじゃ、乾杯しましょ。」
 私は彼女の目を見た。全体の印象、大人びた、完成された、成熟した印象に比べ、目は少女のそれだった。いたずらっぽい目だった。

 「乾杯」

 私は、ひとくち飲むと、窓に写る彼女の横顔に話し掛けた。

 「そういう意味じゃないんだ」
 「えっ、なんのこと」
 彼女は身を乗り出して、顔に手を当て私を覗き込んだ。
 「印象が違うって……」
 「ああ、そのこと。やだわ」

 彼女はくすくす私の顔を見て笑った。

 「御免なさい。そういうのって好きよ、私。あなたって面白いわ。というより真面目なんだ。続けて」

 気勢をそがれたが、気を取り直して私は続けた。

 「実は、僕は全然面白くない男でね。それで、よく苦労するんだ。女の人と話す時、特に美しいひととか、男、いや人間をよく知っている女性と話す時は苦労するんだ。背伸びしたり、相手の話に合わせ過ぎたり、最初は頑張るんだけど、すぐ話が平板になり、そしてとぎれて、しばらく沈黙。そして、人を愛するって、どういうことだと思いますかって唐突に質問したりして」
 彼女は大声で笑いながら、「いるいるそういう人」と何度もうなずいた。
 「そういう苦手なタイプの女性だと、君を最初見た時思ったんだ。でも、話してみると、どういうわけか無理せずに話せる」
 「でも私、男をよく知っている恋多き女よ」
 彼女は、ほんの少し悲しげに答え、ほんのしばらく俯き、そして笑顔を見せた。
 「いや……」

 私は、ほんの少し哀しみを覚えた。

 「さっき、あなたの言ったことだけど、人を愛するってどういうことなのかな。あなたには見破られたけど、私結婚してるのね。不思議に思ったでしょ。人妻が大晦日に一人で松山から札幌まで来てるなんて」

 言われてみるとそうだったが、その時、自分は何かが失われていた。そのことより、自分が彼女の話を聞いていることの方が私には不思議に思われた。そのきっかけを作ったのは私なのだが。

 「あなた聞いてるの。ちゃんと聞いてよ。人が話しているんだから。私、水割り貰おうかな。考えてみればあなたも不思議な人ね。あっそうそう、あなたは、自殺するために来たのよね。ちゃんと理由があるんだ」
 「今御主人どこで何しているんですか」
 「そう改まって聞かれると困ってしまうけど、彼、ニューヨークにいるのね。今の時間だったら、まだ寝てると思うわ。」
 「出張かなんか。」
 「違うの。彼もう十年近くあっちに住んでるわ。私達、今年の二月に結婚して、松山に一週間一緒にいて……、それっきり。こんな結婚って考えられる。私、なんであの人と結婚したのかなと自分でも不思議に思うわ。」
 「普通結婚したら、奥さんもニューヨークへ行くべきじゃない」
 「そりゃ、私も行きたいわ。でも、結婚してても永住ビザがすぐおりないの。一年以上かかるんだって。水割りまだかなあ」

 彼女は少し酔ってきていた。私も食事をしていないのと、睡眠不足のせいか、ギムレット一杯でかなり酔いが回ってきていた。

「僕も水割りに変えよう。で、御主人の仕事は?」
「なんだと思う。ちょっと想像できないと思うわ。弓道教えてるの。変わってるでしょ。日本では、弓道は仕事にならないけど、向こうでは、結構やっていけるのよね。
 話、元に戻るけど、人を愛するってどういうこと。私結婚している自覚がないというか、持てないの。例えば、会社の男の子達と飲みに行ったりするのね。それで酔っ払うと陽気になって抱きついたりするのね。そんなのならまだ良いんだけど、私が結婚しているの解ってて、私を好きだと言ってくれる人がいるのね。どこまで本気か知らないけど。それで誘われれば、二人で会ったりもするの。好意を持ってくれているの解るから、応えなければ悪いんじゃないかって思う性格なのね、私って。だんな様は、外国でサバイバルしてるっていうのに……。だんな様のこと本当に愛してるのかなって不安になるの。でも、悪いなあと思う一方で、私の自由な時間もあと少しだと思うと、遊んじゃえと思ったりもするの」
 「それで、こんなところで、水割り飲んでいるわけだ。迷っているわけだ。でも罪つくりな話だと思うな、それは。御主人にとっても、君を好きになった松山の男性にとっても、そして、僕にとってもかな。美しい女性は、モラルという税金を払い続けなければならないと思うよ」
 「ふーん」
 「でもよく結婚する気になったね。ニョーヨークで暮らしてゆくわけだろ」
 「勿論、私嫌だったわ。私普通の結婚に憬れてたわ。サザエさんみたいな」
 「じゃ、何故……?」
 「回りの状況が許してくれなかったというか、お見合いして、本人に気にいられた以上に相手のお母さんに気にいられたのよね。この人の息子なら大丈夫かなって思うようになったの。私、母を小さい時になくしているし……。いつのまにか話が進んでしまったわ」
 「僕は、それは違うと思うな。今までいろんな人と付き合って結婚を決断したのは、今の御主人だった。やっぱり、そこには何かあるんじゃない」
 「うん。私ね、断るつもりで一度ニューヨークまで行ったの。断るつもりだったから、私自分の過去のことや悪い面ばかりさらけだしたのよね。彼、何て言ったと思う。彼こう言ったの。古代ギリシャ人の考えでは、昔、男と女は一体だったの。それがある日、文字通り引き裂かれたのね。それが、男と女が求め合う理由なんだって。それ以来、男と女は元の形に戻るため、元の相手を求め、遍歴するんだけど、相手はたまたま老人になっていたり、もう死んでいたり、現世で巡りあうことは少ないんだって。彼が言うには、彼にとって私は何世代も探し求めてやっと巡りあった自分の分身なんだって。だから、私の持っている悪い部分も、それは自分が共有すべきものなんだって言うの。私、そんなこと言われたの初めて……」

 私は、見たこともない彼女の夫に嫉妬を覚えた。若くしてニューヨークへ行き、弓道を教えている男。自分以外の人生をも受容できる男。彼に比べ、自分は何者でもないという思いが胸に込み上げてきた。私は、拠って立つ資産を何も持っていなかった。
 私は、彼女を愛しているという松山の男のことを思った。報われることのない愛に忠実であろうとする男にシンパシイを感じた。彼の気持は、膨らむだけ膨らんだところで急に針を刺された風船のように、行くあてもなく、虚しく空をさまようのだろう。彼はこの世で自分の分身を果たして探しだせるのだろうか。

 「薄野、行ってみない?」
 「開いている店あるかしら」
 「知っている店があるから」

 十五分後に、ホテルの前で待合わせた。
彼女は、黒のオーバーコートを羽織って現れた。コートの下から白のスカートと形の良い足が見えた。長い髪が揺れていた。私は、ジーンズにセーター、その上にマウンテンパーカー。不釣合だが良いだろう。私はクラクションを鳴らした。彼女が足早に近付いてくる。

 「大丈夫なの、車で」
 「一度経験してみたかったんだ。酔っ払い運転」

 ホテル前を出ると、駅前通りを北へ進んだ。ほとんど人通りはない。雪が少し激しくなっている。車のライトに照らされた雪が視界を遮る。大通りもひっそりしていた。テレビ塔の時刻表示が、ちょうど十時三十分を示していた。薄野もやはり闇の中に静まりかえっている。いつもの色とりどりのネオンの下の喧噪が嘘のようだ。南六条を右折して車を止めた。二、三台路肩に車が止っているが、人通りは絶えていた。風が通りを抜け、空からの雪と道の雪を舞い上げ激しく吹きつける。

 「ウー、寒い。早く入りましょ」

 十年ぶりの薄野だった。目指す店までまっすぐ辿り着ける自身はなかった。
 「キャッ、滑るわ」と言って彼女は、私の腕に手を回してきた。道はアイスバーンになっていて路肩はゴツゴツとした氷の塊で盛り上がっている。ほとんどのビルの明りは消え、すっかり人がいなくなっていた。どこか不気味だ。あの欲望と嫉妬と喧噪、そして異臭の名残りはどこに潜んでいるのだろう。

 「世界の終わりって感じね。幕が降りて、役者のいなくなった舞台の雰囲気ね。でもちょっと良い感じよ」

 しばらく歩くと、目指す店は見つかった。ビルの案内灯に一つ灯がぼんやり点っていた。−クロスローズ-
 ドアを開けると様子が違っていた。十年前、最後に来た時、ここでビリーホリデーを聞いたのだが、今日は何故か、GSソングが流れている。ダウンタウンブギウギバンドが歌う“神様お願い”。数人の客がカウンターで盛り上がっていた。我々は隅のボックスに座った。

 「すみません。今日は無礼講でやってますから」
 「マスターは?」
 「さっきまでいたんですけど、奥さんと初詣の約束があるからって帰りましたよ。今日はもう戻ってくるかどうか」

 十年も経てば、様々な事が変わる。十年前この店のマスターは結婚に失敗し、カウンターの中で荒れていた。

 「不器男、結婚なんて一つのエピソードでしかないんだ。俺の人生にとってね。よく覚えておけ。嫁さんが男つくって逃げ出そうが、男に捨てられて頭おかしくなって電車に飛び込もうが、俺の人生の本質的な部分には関係ないんだ」

 彼がほんとうにそんなふうに考えていたかどうか、私には疑問だった。その証拠に私が札幌を離れる時、彼はポツリと言った。

 「結婚なんて二度としない。おまえは、葉子ちゃん大切にしろよ」

 でも、この十年間、自分そして他人の振舞を見て、私はこんなふうに考えるようになっていた。人は常に理由付けをし、事態を合理化して生きてゆくものだと。当時の彼の言動は矛盾だらけだったが、たぶんどれも真実だったのだろう。彼は様々な努力をしていたのだ。
 十年も経てば、様々な事が変わる。彼は新しい妻と初詣に行こうとしている。そして、結婚を一つのエピソードとは到底考えられなかった当時の私は今、妻と子を失い、事態を合理化しようとする気持ちも持てない状況に立ち至っている。

 「熱燗ないかしら」
 「グットタイミング。景気づけに日本酒用意してたところなんです。その代わり、日本酒飲んだ方は、十一時から始まるウソつきコンテストに出ないといけませんから、覚悟しててください」
 「何かしら、ウソつきコンテストって。あなた知ってる?」

 彼女は、コートを脱ぎながら、私を見詰めた。白いカシミヤのセーターの胸のふくらみに目が行った。

 「コラッ、早く質問に答えなさい」
 「知らない」
 「頼むわ。ウソつきコンテスト。私、人前で話すの苦手なの。お酒飲んでも赤くならないのに、人前で話すと、真っ赤になるの」
 「真っ赤な嘘で良いんじゃない」
 「あなたって、時々面白いわ」
 「人を愛することって何っていう君の質問だけど……」

 彼女は、クスクス笑いだした。

 「御免なさい。止まらないの。あなたって面白い人。でも有難う。考えてくれてたのね」 「まっ、少し飲もうか。」

 小樽焼きの徳利で相手に酒を注いだ。

 「君は良い選択をしたと思うな。選択という言葉は悪いけど、君が判断し、この人と結婚しようと決意したわけだ。君は賢明な人だと思うし、御主人の話を聞いてみて、君の選択は間違いではないと思うよ。それならば、迷わず愛し続けるべきなんだ。答えにならないかも解らないけど、人を愛するってことは、愛し続けることじゃないかと思うんだ。人生長いから、いつも相手が同じ方向を向いてくれていないかもしれない。SEXをしている時でさえ、空しさを覚えるときがあるかもしれない。でも、その空しさに耐えて愛し続けるべきなんだ。
 僕が通勤途中、最近見かける光景だけど、いつも道の真中におばあさんが立っているんだ。そこは学校の近くで、通学の生徒がたくさん歩いて来る中で、そのおばあさんが立ってるんだ。邪魔だなと僕も最初は思ってた。でも、しばらくして、そのおばあさんが時々手を振ることに気がついたんだ。何かなと思って、先を見ると、三十メートルほど前方で、白髪の紳士が時々振り返り、おばあさんに応えて手を振ってる。それも笑顔を浮かべて。曲がり角が近づくと、何度も何度も振り返り手を振ってる。おばあさんは、その紳士が、彼女の夫だけれども、見えなくなってもしばらくその場で佇んでいるんだ。彼等はたぶんその行為を結婚してから何十年、休まず続けてきたんだなと思ったらなんか熱くなってきてね。新婚当初は今の様に、彼女は一人で夫を送ってたんだ。そして、子供が生まれると、赤ん坊を抱いて送り、子供達が学校に行くようになると、夫と子供達を送り、子供達が成人し、家を離れると、また一人でそのおばあさんは、夫を手を振って送ってるんだ。こんな愛されかたをされると、男はまいってしまうな」
 「ふーん。で、あなたはどうだった?」

 その時、うそつきコンテストが始まった。

 「只今からうそつきコンテストを始めます」

 最後に私の番がきた。ステージに立ちマイクを持ったが、なかなか言葉が出ない。

 「頑張って」

 彼女が遠くで手を振っていた。私は、話し始めた。

 「私は、殺人者です。昨日、私の妻の情夫を殺した男です。綿密な計画を立て、明確な殺意を持って冷静に殺人を実行しました。不思議に後悔も動揺も現在ありません。むしろ安らぎを感じているくらいです。我々は、私と妻と娘ですが、ごく普通の家族でした。多くの男がそうであるように、所謂浮気をしていたのも事実です。しかし、家族を捨てて女の元に走るというほど情熱的にもなれない小心なごく普通の小市民だったわけです。結婚という既成事実に、というより妻に甘えていたのかもしれません。今、情熱的にもなれない、そして浮気というふうに言いましたが、それが遊びだとは私には思えませんでした。むしろ結婚を考えない恋愛は、純粋で完全なものだとすら思えました。私は、相手の女性をほんとうに愛しく思いました。私は、世間でいうモラルという制約をほとんどの場面で感じませんでした。相手が妻のことを気にして、逃げ腰になるのが、私には不可解でした。妻以外の女性を好きになるという感情の動き、そしてその結果としてのセックスは、ごく自然なことだと思っていました。そういった行為をいったい誰が禁ずることができるのかといった思いが私にはありました。一方で、私は妻を愛していなくはなかったし、娘を可愛く思っていました。そういった事態が矛盾した事だとは思えませんでした。妻につく嘘は、事態をスムーズに動かす潤滑油だと思われました。でも、正直に言えば、心の奥底では、『おかしいぞ』とは思っていました。
 私の世界観の矛盾の露呈は、私にとっては、 突然でした。しかし、私の妻の心と体は、ずいぶん前からある男に蝕まれていたのです。迂闊でした。ある男から職場に電話がかかり、会って見せられたのは、妻とその男の情事の写真数枚と、一枚の借用証書でした。
 男は私よりいくつか若い、一見してそれと解るやくざでした。借用証書の額は八百万、妻が起こした自動車事故と覚醒剤の代金ということでした。私は信じがたい気持で家に帰りました。激しい嫉妬はありましたが、妻への怒は不思議にありませんでした。それよりも事実を確かめたかったのです。しかし、家からは、既に妻と娘は去っていました。明りを点けると、離婚届と実家へ帰りますという置手紙だけが食卓テーブルの上に置かれていました。
 私は、打ちのめされてしまいました。でもその後のしばらくの時間は、数日無断欠勤をしたのですが、私に考える機会を与えてくれました。私は、自分の世界観の矛盾にようやく気が付いたのです。私の宇宙は、私の思弁が造り出した完結した世界だったけれど、私一人が住む世界だったのです。私の妻は、その世界の外に取り残された存在だつた訳です。その世界の中では、たとえば、恋愛をすれば、その恋愛は純粋であり完全なものだった。けれど、その完全さは、その世界の外に取り残された妻に、何もかも押しつけて成り立っていることに気が付いたのです。私の世界の外に佇んでいた妻の立場に立って考えることはなかった。もっと言えば、完全な恋愛の相手だった女の子の立場に立って考えることもなかった。私一人で完結した世界だった訳です。私はその間違った世界は消滅すべきだと考えました。そうすることが、私の責任だと考えました。しかし、その前にすべき事がありました。妻を弄んだ男を殺す事です。私は男を殺す計画を練ることで気分が高揚しました。ヒーローになったようでした。迷いはなく、冷静でした。私の選択はそれしかないと思われたのです。
 私は、家と土地を売り、金に替えました。勿論、男に渡すつもりはなく、離婚届と一緒に妻に送りました。そして、男に連絡を取り呼び出したのです。見せ金の入ったバッグと引き替えに借用証書とネガを受け取りました。油断している男を殺すのは簡単でした。私は、先ず心臓をNATO軍採用のサバイバルナイフで突き、倒れたところを、頸椎めがけてフォールディングナイフを体重を乗せて突き刺しました。死体は、車で産業廃棄物処理場まで運び、棄てました」

 話が終わると、静かだった。そして拍手が起こった。彼女は、両手を合わせ、頬づえをつき私を見詰めていた。席に戻ると、彼女の口は少し動いたが言葉にはならなかった。彼女の手のぬくもりを私は自分の手に感じた。

 「新年に三十秒前です。皆さん、手元のクラッカーを用意して下さい。十秒前です。五、四、三、二、一。ハッピーニューイヤー」

 クラッカーの音とともに喚声が一斉にあがった。彼女に促されて私も立ち上がった。
 楽しいひとときだった。久し振りツイストを踊り、生のピアノ伴奏で彼女とデュエットをした。他の客と歌っている時も彼女は私を見ていた。みんな芸達者だった。中国語とポルトガル語で、日本の女の品定めをするという話には、みんなが笑い転げた。ブレイクダンスをしながらストリップを始めた男は、ついに最後まで脱いでしまい、みんなから顰蹙をかいながらも拍手喝采を浴びた。その男をカメラを持った店の人間が追いかけ、男は店の中を逃げ回り、女の子達はキャーキャーと大変な騒ぎだった。
 最後に私達はブルースを踊った。そうしていつものように、祭りには終りが来る。
 私達は車に乗ろうとしていた。

 「忘れ物ですよ。うそつきコンテストの一等賞。ジャクダニエル」
 「貰っていいのかな。あんな話で」
 「君達とはまたいつか話ができたらと思うよ。このジャクダニエルはその日まで預かっとくよ。バカな真似はするなよ。俺はジェフ、エーと…」
 「僕は、堀」
 「私は、サホコ」

 ジェフは何度も何かに納得したように頷き、そして、じゃあと言ってビルの中に消えた。

 「サホコっていうのか」
 「堀さんっていうの」
 「サホコってどんな字」
 「人偏に左、そしてヤスコって書くの。佐保姫って春の神様がいるらしいの。いつも夢をみている神様だって」
 「好きだよ、その名前。よく似あってる」
 「ありがとう」
 「もう少し付きあってくれないかな。行きたい所があるんだ」

 大通りまで戻り、左折し、しばらく走ると、旭山の麓に着いた。山沿いを少し走り、右折し坂道を登った。
 車を降りると、風は止んでいた。寒さをあまり感じなかった。見覚えのある場所だった。振り返ると、なだらかな、そして一面雪に覆われたスロープが見える。やはり同じだ。一面の雪は、夜の闇を吸取り、静かに青白い光を放っている。静謐な世界だった。降り積もった白い雪は、音をも吸取ってしまっているようだった。
 気がつくと、もう佐保子の頭や肩には粉雪が降り積もっていた。見上げると、粉雪が音もなく、糸を引くように静かに降りてくる。息を呑むような多量の粉雪が空一面を覆い、静かに降りてくる。手にとると、結晶のままの粉雪だった。

 「少し歩こうか」

 佐保子の手をとり、音もなく降りしきる雪の中を歩いた。雪は、私の心の様々な思い、嫉妬や高ぶり、恨み、哀しみ、怒り、猜疑、傲慢、絶望をも吸取っていくようだ。しばらく歩くと、札幌の市街を見渡せる広場に行き着いた。眼下に札幌の夜景が見えた。様々の明りが、夜明け前の闇の中で煌めいていた。大きく勢いのある明りもあり、いまにも消えいりそうな明りもあった。
 佐保子の指先を頬に感じた。私は向き直り彼女を見詰めた。そして静かに手を伸ばした。彼女の目が閉じられると、私は唇を合せた。どうしたわけか、私の心に新たな哀しみが生まれていた。熱い涙が頬を濡らすのを感じた。

 「我々、また会えるかな」
 「……」
 「こんなこと言ってはいけないんだろうけど、僕の我侭だけど、万が一だよ、十年後、君が一人だったら、今日の店に来て欲しい。そして今日は言えなかったけど、ハッピーニューイヤーと言ってギムレットをまた君と一緒に飲みたい。でも、無理だな。君が来ていなかったら、幸せに暮しているんだと僕は安心して、やはり、君のために、ハッピーニューイヤーって言うよ」
 「そんなの……」

 佐保子をホテルに送り、一人外に出ると、もう夜明けだった。


 十年後、十二月三十一日、ニューヨーク。まだ夜は明けきっていない。
 佐保子は部屋着を着け、バルコニーに出ていた。
 「堀さん、私、行けないわ。今とっても幸せ。ごめんなさいね。グラス持ってくれてる?ハッピーニューイヤー」

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