木々は陽を浴びて


 夜の闇は深く何の気配も感じさせない。街の灯さえ無くただ闇が拡がっている。歩く道は固く、足下に目を移すと、“コツコツ”と靴の音が聞こえる。香しくそして何か予感を秘めた春の闇夜だ。
 二人の女が寄り添うように歩いてくるのが見えた。ポッと明りが点ったような現れかただった。音もなく風に吹かれるように闇の中を進んで行く白い姿だ。
 女の一人は濃い化粧をして、微笑を浮かべていた。もう一人は闇の影になっていたが、清楚で疑いを持たない少女だと私には解っていた。濃い化粧の女の肩を抱くと、私は安らいで自由なおもいに包まれた。そしてその女がこの上もなく愛しく思われた。
 私達は闇の中を歩き続けた。しばらくして、女は立ち止まり遠くを指差した。女のアパートがあるらしいのだが、とらえどころのない空虚な闇が拡がっているばかりか、いつのまにか霧も出てきたようで何も見えない。少女はそこで別れを告げたので、女と私は闇の中を再び歩き始めた。

 朝起きると、二日酔いだった。窓からブラインド越しに朝の光がさしているが、ベットとテーブルの他何もない一DKの部屋は、ガランとして、五月も半ばだというのに薄ら寒い。頭がまだボンヤリしていた。あの事件の後身についた悪い習慣だ。わけが分からなくなるまで飲んでしまう。
 シャワーを浴びながら夢の事を考えていた。夢の中のあの女どこかで見たおぼえがあった。 顔を鏡に写すと、まだ目の周りがほんのり赤い。仕事を休もうと思ったが、今日は仕事は昼までだと気を取り直してバスルームを出た。午後には青木との約束もあった。身仕度を整えると、階下の喫茶店に入った。
 『生活が変わってしまったな。』と思う先に、あの記憶がまとわりついてきた。
 私は妻を愛し始めていた。学生時代結婚を約束していた女性を捨てたという心の負担がとけ、見合い結婚した妻を愛し始めていた。その矢先だった。妻と子供が交通事故で死んだのは。なくしたものは大きかった。
 『もうこんな時間か。』私は冷めたコーヒーを飲み干すと、席を立った。
 青木は約束の時間に五分遅れた。私は十五分前に来ていたので、苛立っていた。

 「遅いじゃないか。おまえのほうだろ。三時きっかりと言ったのは。」
 「五分じゃないか。おまえみたいなお役所勤めと違って、こっちは自営業なんだからいろいろあるんだ。」

 青木は私の小、中、高の同級生で、今は親父の後を継いで歯科医をやっている。尊敬すべきところは何ひとつない男だが、どういうわけか関係が続いている。あの事故の時、最初に訪ねてきたのも青木だった。彼は私と同じ三十一歳だが結婚もせず遊び呆けている。

 「今日は面白いところに連れていってやるからそう怒るなよ。」  「また面白いところか、よく飽きないな。おまえもそろそろ結婚したらどうなんだ。もう三十越えたんだぞ。」
 「話の腰を折るなよ。今日は女も二人呼んでるから…。まあ、結婚はまだ当分できないだろうな。女にも不自由してないし、第一女は信用できん。俺みたいな男に結局、十人が十人股開くんだから。それに、結婚にはおまえが一番懲りているはずじゃないか。」

 口にして欲しくなかった。妻は、男の車に乗っていて事故に遭った。暴走車が反対車線に入り込み、正面衝突だった。妻と子供は即死だったが、男は生きていた。男は妻の学生時代の友人だった。妻とその男の間に何があったのか分からない。男とは結局最後まで会わなかった。病院で意識を取り戻した時、男は事故の記憶をなくしていた。そんな男に会うことに何の意味があるだろう。会って優しい言葉をかける気はなかった。一生重荷を背負って生きればいいと思った。
 事故の後、私はできるだけ社会と係わりをもたず、即時的に生きようと心に誓った。その頃から性欲が異常に昂進してきた。そんな時、青木は便利だった。彼といると、女に不自由はしなかった。
 どんな女でも相手にした。女は欲望の捌け口としか考えなかった。そんな私を真剣に理解しようとした女もいたが、私は無視した。結局、女は私から去っていった。私はいつも最後は振られ役だった。驚きと侮蔑そして憐れみの目を残して女達は去っていった。別れは尾をひかなかった。私は振られ続けた。そして底無しの闇の中へ落ちて行くような墜落感を冷静に味わっていた。

 「悪かった。つまらん事言って、嫌な事思い出させてしまった。」
 「いや、いいんだ。それより今日はどこへ行くんだ。面白いところって。」

 連れていかれたのは、スワップパーティーという集まりだった。我々が会場に着いた頃には五組程すでに来ていた。夫婦同志で何か話してはいるが、互いに他のカップルに関心は移っているようだ。入ってすぐ視線がまとわりつき始めた。

 「どうだ。興奮するだろう。」

 青木の声はうわずっていた。確かに異様な雰囲気だった。私自身戸惑いながらも興奮してくるのが分かった。

 「もうすぐ酒池肉林、肉林肉林。」

 青木は独り言を言いながら、オードブルをぱくついていた。

 しばらくすると、司会者がマイクを持って現れた。ダンスが始まるらしい。もうすでに裸になっているのも数人いた。女のほうが積極的なようだ。女達は仮面をつけていた。ナットキンコールの曲が流れていた。私はしだいに理性的になっていた。集まった連中が醜悪に見えた。私の腕に抱かれている女は三十半ばだろう。ニワトリの足のような指をしていた。その指の大きなダイヤで女の生活が想像できた。強く抱くと恥ずかしそうに身をよじるが、女の手は私を強く抱き、私を離さなかった。

 「それじゃこのあたりでゲームを始めましょう。みなさん、これからは全員裸になってください。」

 司会者が押し付けのユーモアでその場を盛り上げようと懸命に頑張っていた。集まった連中もわざとらしくそれに答えて笑う。私は馬鹿らしくなってその場を離れ、ウィスキーを飲みながら眺めていた。男も女も肉の固まりのようで醜悪そのものだった。男は脂肪で腹がたるみ、醜くペニスを勃起させている者もいた。女の足は短く、笑った顔に黄色い歯を見せ卑猥で不気味だ。
 そのうちライトが暗くなり、スワップパーティーの本番のようだ。あちこちで女のうめき声が聞こえ始めた。私は酔いも冷め完全に冷静だった。私は上着を捜し始めた。その時誰かの視線を感じ振り返ったが、見えるのは獣達の蠢きで、悪寒が走った。目の前で女が仮面のまま、前と後ろから犯されていた。私は急に嘔吐を催し、急いでマンションを出た。 外に出ると夜風が気持ち良かった。しばらく歩くとアーケードに出た。真夜中のアーケード、土曜日だというのに人通りが絶えていた。夜の闇は深く何の気配も感じさせない。街の灯さえ無くただ闇が拡がっている。歩く道は固く、足下に目を移すと、“コツコツ”と靴の音が聞こえる。後から私を足速に追いかける靴音がした。そして止まった。

 「待って。」

 振り返ると、仮面をつけたままの女がいた。ゆったりとした服を羽織っていた。私が当惑して見詰めていると、「私のこと覚えていないの?」と言って女は仮面を外した。

 「あっ、君は。」と思わず私は声をあげてしまった。

 昨夜夢の中で見た女の顔だった。彼女は現実の女だったのだ。目の前にいる女は嬉しそうに笑っていた。アイシャドウを濃く引き、真っ赤なマニキュアをしていた。確かに夢の中の女だった。

 「思い出してくれた?」

 現実の彼女は思い出せない。夢が醒めたあと、どこかで見た覚えがあると感じたのは正しかったのだと私は妙に納得した。

 「あの時は有難う。嬉しかったわ。今夜はちょっとショックだったけど。」

 彼女は人違いをしているのじゃないかと私には思えたが、真剣な彼女のまなざしを見ていると、何も言えなかった。この数ケ月、私は女性には恨まれる事しかしていなかった。
 「今晩私うまく逃げてきたから自由なの。少し歩こうよ。」と言って彼女は私の手を握った。暖かい感触が伝わってきた。可愛い手だった。私は彼女のペースに乗せられていた。

 「あの時殴られた傷、もう大丈夫?」

 私は思いだしかけていた。あの時の女だったのか。

 妻をなくして一月も経っていない頃だった。 私は毎日深酒をし、荒んでいた。場所も確かこのアーケードの下、時間もちょうど零時を回った頃だった。私は例によって酔っていた。今日と違って人通りがあった。学生達が赤い顔をして集団で騒ぎ、それぞれお目当ての女を口説こうと努力していた。猿が酔っているようだった。仕事帰りの女がさっそうと去っていく。だらしなく酔った中年のサラリーマンが肩を抱き合って時々大声を上げていた。その時、私の横を若い男が走り去ったかとおもうと、後方で女の悲鳴が聞こえた。

 「やめて。」

 女は植え込みの木にしがみついていた。その女の髪を男が後ろから掴み、足で女の体を蹴っていた。その度に女はうめき声を上げ、男も何かわめいていた。手を木から離した女を、男は今度は引き摺りそして立たせると頬を殴り始めた。

 「朋子、人並みに男に惚れやがって。どういうつもりだ、おまえは。」

 そう言って男は女を殴り続けた。私はこれはただの痴話喧嘩ではないと思い、男に歩み寄った。酔った勢いだった。胸は高鳴り、声は震えているのが分かった。

 「いいかげんにしたらどうだ。」

 そう言って私は男の手を掴んだ。向き直った男の形相は怒りに興奮して、私を圧倒していた。そして手から伝わる感触は、私にはとてもかなう相手ではないことを教えていた。

 「おまえには関係ねえんだよ。」

 男の視線を嫌い目をそらすと、女が私を見上げていた。彼女の潤んだ目が救いを求めているように私には思えた。私は追い込まれたと思った。同時にとことんまで自分を追い込んでやれという思いが募ってきた。私は幾分冷静さを取り戻していた。

 「それじゃ、君にはこの女性を殴りつける程の関係があるのかな。」

 私は一言一言はっきり言うことができた。

 「おおありなんだ。」

 男は私の胸倉を掴んだ。

 「君とは関係ができたようだな。」
 「何だと。」

 男は私を突き倒すと飛びかかってきた。私は咄嗟に身を避け、男の足を払った。男はもんどりうって倒れた。しばらくして起き上がった男の顔には野性の狂暴さが現れていた。刃物を突きつけられたような恐怖が私の体に拡がった。すぐ私は男の一撃を顔面に受け、腹部には膝蹴りを受けていた。倒れようとする私に男はもう一度パンチを出した。パカッという音がしたかと思うと、私の口から血が噴き出ていた。
 私は血を腕で拭うと男の腰に向かってダッシュした。男の後ろにはちょうど自転車とバイクが止めてあり、男はそれに躓き、私と一緒に倒れた。しかしすぐ男は体を入れ替え私に馬乗りになった。

 「君は、女性を、人間を愛したことがあるのか。」と私は殴られながら、観念して先程から考えていたことを口走った。男の目の色が一瞬変わった。
 「愛だと、愛だとか善意だとか振り回す奴を見るとヘドがでる。この女の痛みをおまえは我慢できるだろう。愛や善意でこの女を助けようと思うならその愛とか善意で最後までやってみろ。俺に愛とか善意で勝てるのか。」

 そう言うと男は立ち上がり、私の脇腹の急所をめがけて蹴ってきた。私はもう男のなすがままだった。その時だった。女が私に被さりガードしてくれたのは。

 「もうやめて、朋子言うとおりにするわ。」
 男は機械的に蹴るのを止めていた。男は女の手を掴み引き上げると、私を見下ろした。私も男も冷静だった。
 男は視線をそらすと女を連れて歩き出した。私は女が素早く手渡してくれたハンカチで口を拭ながら振り返る女を見詰めた。

 「確か朋子、だったかな。」

 微笑んで私を見詰める朋子の顔は昨夜の夢の中の女の顔だった。

 「あら、何故名前知ってるの。」

 男がそう呼んでいたと言おうとして私は口を噤んだ。男の影が心をよぎった。アーケードがとぎれ、交差点で私達は立ち止まった。

 「送っていこう。」

 私は車を止めようとしたが、朋子は私の手を強く握り、私を見詰めた。

 「イヤッ」

 ディスコサウンドを鳴らしながら暴走車が走り去った。

 「どこへも、もう行くところはないんだ。僕のアパートはもうすぐそこだし。」

 私は疲れていた。自分の部屋で一人で眠りたかった。時々見せる彼女の思い詰めたような仕草が私には負担だった。

 「お願い。シャワーだけ使わせて。それできっと帰るから。」

 私は仕方なく頷いた。車はもう走っていなかった。街灯が点々と点り、道は広く、長く、そして遠くまで見通せた。並んで歩くと、朋子の髪が私の頬に触れた。
 アパートに着くと、戸口で少し朋子はためらっていたが、「おじゃまします。」と言って入って来た。そして、物珍しそうに中を見回していた。

 「何もないのね、この部屋は。」
 「早くシャワーを浴びて帰ってくれ。」と私は冷たく言った。

 朋子は服を脱ぐと、服をテーブルの上に載せ、痩せ気味の裸身を見せた。そして、「イーッだ。」と言って舌を出しこちらを向いた。 私は呆気にとられていた。いつになくドギマギしていた。私はコップに水を注ぎ、飲み干した。振り返ると、朋子はもうバスルームに消えていた。私はガラス越しに見える裸身を見詰めた。しばらくして、朋子はバスタオルを体に巻いて出てきた。白い肌が上気して美しかった。私は心が乱れるのを感じていた。

 「あらっ、カセットデッキがあるじゃない。なにかかけてもいい?」
 「触らないで欲しいな。僕がシャワーを浴びているうちに帰ってほしい。」

 私はまた冷たく言った。朋子の美しさにひかれたが、朋子の気持ちを受け入れる余裕はその時なかった。私は疲れていた。
 うなだれる朋子を後に残し、私はバスルームに入った。熱い湯が疲れをほぐしてくれて気持ち良かった。一気に眠りにつけそうだ。バスルームから出ると、朋子は服をつけ私のベットに座り、テープを聞いていた。私を見上げると、朋子は口を開いた。

 「泊めてほしいの。」
 「帰るのが約束だろ。ラジカセには触るなって言ったろ。おまえはどういう女なんだ。よく考えてみろ。」
 「いいわよ。帰ればいいんでしょ。馬鹿、ろくでなし。」と言って彼女はドアに向かって駆け出した。私はカギを掛けるつもりで後を追ったが、朋子は玄関口で私に背を向け立っていた。私を待っていたように朋子は振り返った。

 「私、戻る所がないの。」

 それだけ言うと、朋子は下を向いた。嘘をついているとしか思えなかった。いつもの私なら叩き出してやるのだが……。部屋に入れたのが最初の躓きだった。泥沼に足を突っ込んだような疎ましい気分だった。たぶん、どこか朋子にひかれたせいもあったのだろう。私はますます泥沼に足を踏み入れてしまった。

 「ベットはひとつだから君には毛布を貸すだけだ。カーペットの上で寝てもらう。」
 私はベットから毛布を取ると、朋子に渡した。朋子は毛布で身をくるむと、ベットから離れた壁のそばにうずくまり眠り始めた。
 先程朋子のかけたテープからは、バッハのコラール“主よ、人の望みの喜びよ”が流れていた。私は暗がりの中でしばらく朋子に見入っていた。窓からさす月の光に照らし出されてうずくまる朋子の姿は、私の目を捉えて離さなかった。私にすべて身を委ねているように思えた。私の心の中に、懐かしい熱い何かが生まれかけていた。私は静かに立ち上がり彼女に近づくと、ゆっくり抱き上げた。顔を覗き込むと、頬にはまだ乾かない涙のあとが見えた。あどけない顔だった。ベットまで運び寝かせようとしたが、朋子は私の胸に抱きつき肩を震わせ泣き出した。私は一緒にベットに入ったが、安心したのか朋子は私の胸に顔を埋め眠り始めた。私は素直に朋子を愛しく思えた。胸に熱いものが育ってゆく。


 朝起きると、朋子はいなかった。朝の光がカーテンの隙間から洩れていた。窓が開けられカーテンが風に揺れていた。不安の輪が拡がった。久しく感じたことのなかった動揺だった。
 カーテンを開け放つと、いつもの部屋と感じが違っていた。テーブルの上が片付けられ、床は掃除がされていた。コーヒーカップや皿が洗われ、落ち着くべきところに落ち着いていた。昨日までの自分なら疎ましく感じるはずの端正さ、清潔さを心地好く感じることができた。
 テーブルの上に朋子の書き置きがあった。 『また来ます。合鍵もらっておきます。』 私は思わず微笑んでしまった。目覚めた時の不安は急速にしぼんでいった。しかし、朋子への心の傾斜の性急さが不安だった。女に真剣になること、それは私の脆さだと経験が教えていた。

 「朋子はどういう女なんだろう。」

 朋子を殴っていた男の顔が心をよぎった。 朋子はなかなか姿を現さなかった。昼間は部屋に来ているようだったが、私の前にはあれ以来姿を見せなかった。昼間来た日はいつも書き置きがあった。

 『ここに来ると、心が休まります。コーヒーを飲ませてもらいました。』
 『今日、二時から四時までここでぼんやりしてました。あなたを感じながら……。とても良い風が入ってきます。どこか遠くへ連れて行ってください。』

 私は少年のように心がはやった。朋子に会ったら何を話そうか、あれをしよう、これをしようとシナリオを作り続けた。そして、今日こそは訪ねて来るかもしれないと思い、仕事が終わるとすぐ部屋に戻っていた。
 朋子が現れたのは二ケ月ばかり経った頃だった。私は、窓を開け放したままロッキングチェアに腰を降ろし、部屋の明りを消し、夜空を見詰めていた。十時頃だろうか、鍵を回す音が聞こえた。ドアの開く音、足音、そして明りが点った。私は振り向くと、「やあ。」とだけ声をかけた。

 「いたの。びっくりした。心臓が止まりそうだったわ、不器男さん。フキオさんで良いの。でも不気味な男だから、ブキオかな。ごめんなさい。無断で借りてた本の最後のページに名前書いてたから。」
 「そんなこと気にすることないよ。なんだい、大きな紙袋抱えてきてるけど。」
 「明日、お休みでしょ。どこか連れてって。お弁当の材料買ってきたの。」

 シナリオは一ページ目から狂ってしまった。朋子は紙袋をテーブルに降ろすと、私に微笑んだ。

 「今日は二人で飲みに行こうよ。」
 「こんなに遅くて良いのか。」
 「今夜は泊めて欲しいの。」

 私は慌てた。朋子に急かされ外へ出ると、夜風が気持ち良かった。二人で並んで歩く夜道、垣根に白いつるバラがひっそり咲いているのが見えた。街路樹を見上げると、木の葉が音もなくそよいでいた。私は朋子の手を握った。柔らかく暖かい。朋子は振り向くと、私の腕に両手を絡ませてきた。
 ドアを開けると、客は少なかった。カウンターに座ると、朋子は「テキーラサンライズ」と言って、バーテンに微笑みかけた。男は静かに頷くと私に顔を向けた。

 「ジンバック。」

 店にはシナトラが流れていた。

 「私、こんな感じで男の人と一緒に飲みにくるの初めて。何を話したらいいのかしら。不器男さんはどうして結婚しないの。男の人ってみんなああなの。そしてあの部屋。早く奥さんもらってきれいにしてもらったら。」

 グラスを見詰め話していた朋子は、最後に私を見詰めた。

 「一度結婚してたけど、子供も一人……。でも、事故で二人とも死んでしまった。」
 私は一気にグラスを飲み干した。
 「ごめんなさい。私って。」
 「いいんだ。さっ、気分を変えて何か楽しい話をしよう。今一番何がしたい。」
 「恋がしたいなあ。どんな気持かしら。」
 「僕はもう恋をしてるよ。」
 「えっ。」

 私と朋子は顔を見合わせて笑った。店内でジャズライブが始まった。最初の曲は危険な関係のブルース。
 しばらくして新しい客が三人連れで入ってきた。朋子の顔色が変わるのが分かった。

 「よう朋子やないけ。ゴブサタ。最近はシロウトさんのお相手かい。」

 そう言うと男は私に一瞥をくわえた。朋子はグラスを両手で握りしめ、真正面を向いて耐えていた。
 「シロウトさんにはおまえの体はもったいないぜ。」

 私は立ち上がろうとした。その時、朋子の手が伸び私の足を押さえた。連れの二人が卑猥な声で押し殺すように笑った。

 「お客さん。奥の席が空いてますよ。」
 「オウ。」と言うと男達は背を向けた。

 私は気まずい沈黙に耐えられず、洗面室に席を立った。手を洗っていると、さっきの男が入って来た。髭を生やしているが、よく見ると幼さの残る顔立ちだった。

 「兄さん、さっきはすまんかったな、怒らせてしもうて。言っとくけど、あの女は相手せんほうがええ。その気にさせといて、すぐこれもんが出てくるから。有名な話や。」

 男は馴々しく媚びてきた。私の怒りは納まっていなかった。男の弱さを見定めると、私は一言も声を掛けず男の股間を膝で蹴り上げていた。男の顔は驚きと痛みで歪んでいた。声も出ないようだった。私は続いて腹部に拳を強く一発入れていた。そして男をトイレに突き倒すとその場を出た。

 「帰ろうか。」と朋子の耳元で囁いた。

 外はタクシーの洪水だった。通りをそれて路地に入った。私の興奮はまだ納まっていなかった。朋子は黙って私の後をついて来ていた。こんな時どうすれば気持ちが通じ合うのか私には分からなかった。ラブホテルの空室というライトが見えた。

 「入ろう。」と言って、私は朋子の肩を抱き寄せた。
 「よして。」

 朋子の強い拒否。私は素直に諦め、朋子を離すと黙ってしばらく歩いた。公園が見えてきた。深夜の公園、なかほどに水銀灯が点っており、一組の男女がブランコに乗っていた。シルエットは見えるが声は聞こえない。ベンチに腰を降ろすと朋子も並んで座った。私には朋子が見えなかった。糸口を探していた。

 「人生には言葉で説明できないことがあると思うんだ……。誰でも問題抱えてる。でも、僕と朋子とには何も問題はないじゃないか。そうだろう。僕だって良く言う奴はほとんどいないと思う。たぶんセックスにだらしない男だとか言われていると思う。事実そうだったから。でも、それは今の僕と朋子には関係のないことだろ。朋子が好きなんだ。」

 話すにつれて、意図に反しますます朋子が遠くに去っていきそうな気がして不安だった。朋子は視線を合わそうとしなかった。
 しばらく俯いていた朋子は顔をあげ、「私帰るわ。」と言って立ち上がった。
 朋子が私から去っていく。しかし言葉が出なかった。公園を出るとすぐタクシーが来てしまった。朋子はタクシーに乗ると、最後に笑顔を見せた。タクシーが走り出す。すぐ私は思い直した。タクシーを追おうとした。しかし、あとのタクシーは来なかった。私は走った。朋子を乗せたタクシーが遠のいて行く。テールランプが小さくなってゆき、そして見えなくなった。私は息を弾ませ、街路樹の下に座り込んだ。打ちのめされていた。


 翌朝、電話のベルで起こされた。

 「不器男さん、陽子です。ごめんなさい。休みなのに起こしてしまったみたい。ちょっと兄のことで相談したいの。」
 「午後にしてくれないかな陽子ちゃん。昨夜遅かったから。こっちから連絡するよ。」
 「ええ…。」

 受話器を降ろした。人の相談など乗れる気分ではなかった。頭痛と吐き気がまだ残っていた。時計を見るともう十一時だった。
 昨夜は朋子と別れ、確か明け方まで飲んでいた。いくら飲んでも目が冴えて、酔うことができなかった。喉もとまでこみ上げてくる朋子への思いをウィスキーで鎮めようようとしたが、無理だった。心の動揺など、この年になればうまく整理をつけることができると思っていたが…。
 喉が乾いていた。キッチンに立つと、昨夜の吐瀉物を見て、また吐き気を催した。水を飲み吐き気を押さえると、ベットに倒れ込んだ。窓を開けると外は雨。静かに降っている。少しまどろむと、少し気分が良くなってきたが、そのかわりに気持ちは滅入ってきた。喪失感に襲われた。淋しさが込み上げてきて不覚にも涙となった。

 『ああ、男と女はどうしてこうなんだ。』と心の中で呟いた。

 面倒だという気持ちになってきた。不思議なことにその時、陽子の顔が浮かんだ。陽子に買物を付き合わされた日のことを思い出していた。街を行き交う男達が振り返って陽子を見た。馬鹿なことだが、優越感を感じた。陽子に会えば少しは気持も上向くだろう。

 『今日は夕食でも誘ってやろう。それにしても何だろう。青木のことで相談って。』

 その時だった。「愛や善意でこの女を助けようと思うならその愛とか善意で最後までやってみろ。俺に愛とか善意で勝てるのか。」というあの男の声が甦った。
 ベットから起き上がると、バスルームに入り、座ったまま冷たいシャワーを浴び続けた。十分もするとすっきりしてきた。体を拭いてバスルームを出ると、朋子が玄関にうずくまって座っていた…。
 感じが違っていた。髪は乱れ、化粧は涙で落ちてしまい別人のようになっていた。虚ろな目で私を捉えると、私に抱きついてきた。

 「お兄ちゃんが行ってしまったの。私どうしたらいいの。」

 朋子は私に抱きついたまま泣きじゃくった。 私は情況を理解できないまま、朋子を強く抱きしめていた。

 「いったいどうしたんだ。」

 朋子は答えなかった。私は朋子をバスルームまで連れて行き、シャワーを浴びさせた。バスルームから出ると、朋子はベットに倒れ込み、寝息をたて始めた。
 先程の落胆が嘘のように思えた。『朋子が帰ってきた。』そう何度も口の中で呟きながら喜びを確かめていた。暖かいシャワーを浴びた朋子の顔はもとの顔に戻っていた。外はまだ雨が静かに降っている。優しい雨だった。しばらくして電話が鳴った。

 「陽子です。ごめんなさい、度々。」
 「いや、僕の方から電話することになってたのに。」

 時計を見ると、一時を過ぎていた。

 「兄が行方不明なの。先月出ていったきり。 今日でちょうど一ケ月、どうしたらいいの。」
 受話器の向こうで陽子の嗚咽が聞こえた。

 「陽子ちゃん、原因は何なんだ。青木が出ていったわけは。」
 「原因は分からないの。そのことで父が不器男さんに会いたがっているの。うちまで来てほしいの。いま父にかわるわ。」
 「いや、ちょっと今手が離せないから。今夜七時にそちらへ行くから、それまで待ってくれないかな。」
 「お願い。できるだけ早く来て。」

 私にはわけが分からなかった。電話は切れたが、私はしばらく受話器を耳にあてたまま考え込んでいた。あの青木に何が起こったのだ。その時、受話器の向こうでカチリという音がした。そういえば電話の音も遠かった。

 『盗聴?そんな馬鹿な。』
 「ウーン。」朋子が目を覚ました。

 私達は公園を歩いていた。雨上がり、木立ちからの木洩れ陽がキラキラと輝く。その下を私達は歩いていた。朋子は私に寄り添いしっかりと私の腕を握っていた。

 「私、時々あんな風になるの。とても不安なの。男の人を好きになりかけた時。どう言ったらいいのかな。臆病なのかしら。相手の人が好きになってくれればくれる程不安なの。結局兄に相談してしまう…。すると、兄は私の幸せをひとつひとつ壊してくれるわ。でも私どういうわけか、内心ホッとするの。私って幸せに馴染んでないのね。」

 あの男は朋子の兄だったのだ。朋子に最初に出会った時の光景が浮かんだ。

 「この女の痛みをおまえは我慢できるだろう。」と言って私を見据えた男の顔をはっきり思い出していた。そして、彼の言おうとした意味が分かるような気がした。

 「昨夜も不安だったの。だって不器男さん優しいから。優しすぎるんだもの。私って、あの男達から言われた通りの女よ。」
 「言うんじゃない。」
 「兄に話そうとしたの。不器男さんのこと。私、不器男さんに好かれる資格ないもの。」 「何言ってるんだ。」
 「言わせて。兄に話してすっきりしたかったの。いつものようになる事は分かってた。苦しかったわ、とても。でも兄はいなくて、書き置きがあったの。一ケ月ばかりY市へ行くって。Y市って私達の生まれた所だけど。私どうしたらいいのか分からなかった。行く所がなくて、気がついたら不器男さんのアパートの前に来てたの。」

 私達は美術館の前に来ていた。近代ヨーロッパ美術展が開催されていた。

 「入ってみようか。」
 「私、美術館入るの初めて。この公園歩くのだってほんというと初めて。」

 朋子は私の後からついて来ていたが、気がつくと一人で絵に見入っていた。私はそんな朋子を遠くから眺めていた。朋子はモネやセザンヌの静物画や風景画を熱心に見ていた。 朋子は美術館を出てからも口を開かなかった。強く心を動かされたようだった。

 「おいしいコーヒーでも飲もうか。」
 「うん。おいしいコーヒーね。」

 近くの小さな喫茶店に入った。白を基調にしたインテリアの室内は端正で、掃除がゆきとどき気持ちが良かった。

 「ごめんなさい。ずっと黙り込んでて。いろんなこと考えてたの。セザンヌって人の静物画や風景画見ていてすごく心が安らいで幸せな気分になったの。そこにあるのは、ただ食器だったり、果物だったり、郊外の風景だったりするのだけど、こんなに幸せな気分になれるのは何故かしらって考えてたの。気がついたら、答えは簡単だったわ。私達が忙しくしているせいで見過ごしていた大切なものが見えてきたって事だったの。画家は、私達の目に写るものそれ自体が本来持っていながら、私達が見過ごしてまう大切なもの、幸せなものを絵を通して私達に気づかせてくれているのじゃないかしら。私達はふだんはその事に気づかず、新しいもの、刺激的なものばかり追い求めているけど、時を止めてゆっくり眺めてみたらどうかしら。大切なもの、幸せなものは私達の目の前にあふれているんじゃないかしら。」

 朋子はいったん話し出すと、饒舌だった。私は嬉しくなった。

 「確かに朋子の言うように、大切なもの、幸せなものはすべて僕らの目の前にあふれているっていうのも分かるけど、逆に矛盾や不合理も目の前にいくらでもあるんじゃないかな。それに目をつむって、世の中ほんとうは幸せなものに満ちあふれているんだってことになれば、世の中進歩がないし、ある意味では危険な事だよ。」
 「不器男さんの言ってる事よく分かるわ。でも、進歩って何。今の世の中の流れを進歩って言うのなら、進歩っていうものは、逆に大切なもの、幸せなものを奪い取ってるんじゃない?」
 「どういうことかな。」
 「少し話長くなるけどいい?」
 「聞きたいな。」
 「朋子の家、父は漁師で母は段々畑でみかん作ってたの。母はもともと東京の人で、戦争の時父の村に疎開していて父と知り合って結婚したらしいの。美しい母だったわ。私、自慢だった。今思えば、都会育ちで、結婚していきなり段々畑に出たり、父の仕事手伝ったり、家の事したりで大変だったと思うけど、母はいつも明るかったわ。あの頃は満ち足りていて幸せだった。母は多趣味の人のようだったけど、田舎に来て唯一許された楽しみは、花を育てる事だったみたい。庭にはいつも花が咲いていたわ。今でも思い出すの。初夏になると、色とりどりのけしの花、そして立葵の花に庭が埋もれていたわ。垣根にはゼラニウムの花、母が話してくれる西洋の国に来たみたいだった。秋には庭一面にコスモスが咲き乱れていたわ。そう、秋にはよく母と一緒に近くの丘にのぼったの。気持の良い風にすすきが揺れていて…。母は私にいろんなお話をしてくれたの。そして、遠くの海を見ていると、夢がいくらでも拡がった…。絵を見ていたら、その頃の幸せな生活を思い出したの。それに比べ私達の今住んでる街はまるでコンクリートジャングルみたい。効率が第一の社会。お金儲けだけの社会。毎日なんであんなに仕事があるんだろうと不思議に思うほど忙しく働いて、夜はまたコンクリートの籠の中で満たされることないままお酒を飲んでる。私そんな世の中に、ほんと馴染めないの。そんな世の中でも今の子供達は将来懐かしく思うようになれるのかしら。それが進歩なの。なんだか私薄気味悪いわ。」
「ほんとうはみんな気がついているのかもしれないね。今の世の中おかしいって。」
 「私が小学校の五年生頃だったかしら、私達家族にも暗い影がさし始めたの。父は寄り合いがあるとかで毎晩遅かったわ。なんでも原子力発電所が私達の部落の近くにできるという話だったらしいの。ほとんどの人は、まだ自分達の畑や海を手放すことは考えていなかったの。でも、原発を造る計画は部落の人達の思惑に関係なく既製事実だったみたい。着々とそして強引に事は進んでいったわ。大人達はひそひそ話を始め出したの。妙に部落全体がよそよそしくなっていったわ。
 『ヒロのところは千二百万だったそうだ。』
 『いや、千三百万だ。』
 そういった噂話がそこかしこから聞こえ始めたわ。原発ってものがどんなものか、子供の私には分らなかったけど、何か暗い影が部落全体を覆っていくようで怖かったわ。そんな私の思いを決定的にした事件がある日起ったの。
 隣に住んでた村上さんは、原発に最後まで反対してたわ。おじいさんとおばあさんの二人暮しで、おじいさんは頑固で変人だと大人達は敬遠してたけど、私たちにはとても優しかったわ。
 村上のおじいさんが一人で一週間旅行に出かけたことがあったの。そこを狙って電力の人は、おばあさんを毎日のように責め立てたわ。経過は分らなかったけど、結局おばあさんは契約書に判をついてしまったの。帰ってきたおじいさんはすごく怒って、おばあさんに離婚を言い渡したの。その声が私の家まで聞こえたわ。
 翌日の朝まだ暗いうちに村上のおじいさんが私の家の前に茫然と立ってたの。父と母が出ていったわ。おじいさんが何か言って自分の家の方を振り返ったの。私たちも見たわ。家の軒におばあさんが首をくくっていた…」

 朋子は話しながら涙をこらえていた。

 「もういいよ」
 「いいえ。聞いて、まだ先があるの」と朋子は自分に確かめるように言い、先を話し始めた。

 「結局、父は土地も船も手放してしまったわ。一人では漁ができないし、失業したのも同然だったの。それにゴネて補償金を吊り上げているという噂が父のプライドを傷つけたのね。母も諦めたみたい。少しのお金で、父は本来の仕事と本来の生活があった家を無くしてしまったわ。とりあえず私たちは町営住宅に入ったの。住宅は鉄筋四階建てで、私と兄はもの珍しくとても嬉しかった。でも、土木作業に出始めた父は慣れない仕事で元気がなかったわ。いつもの自身に満ちた笑顔が見られなくなったの。でも、母は努めて明るく振る舞っていたわ。
 あの日、母と私は夕食の買物を済ませ家に帰る途中だったの。当時、道は原発建設のためよくダンプが通っていたわ。母が小石に躓き、よろめいたの。買物篭から野菜が転げ落ち、道に散らばったの。私は急いで散らばった野菜を集めようと、車道に飛出したの。その時、私は背中を突かれたの。気がついたら病院のベッドの上で寝ていたわ。兄が椅子に座り私を見ていた…。
 何日かして家に帰ったら母はいなかった。子供の私にも母が死んだって事はすぐ理解できたわ。でも不思議なことにその時の記憶がすごく曖昧なの。隣のおばあさんが死んだ時の記憶は鮮明で、今思いだしても気持が高ぶるのに。今思えば、あまりショックが大きかったので、無意識のうちに記憶から省かれてしまったのかもしれないわ。
 そんなことのできない父は悲惨だったわ。月に十日程は土木作業に出てたけど、ほとんど毎日お酒とバクチに明け暮れていたわ。お酒が入っていない時、正気の時はすぐ涙を流す嫌な父になっていた。涙を流していない時は、一日中誰もいない部屋でテレビの前に座って大きな笑い声をたてていたわ。
 そんな父も仕事中ブルドーザーの下敷きになって、あっけなく死んでしまったの。残ったものはバクチの借金だけ。見舞金は当然借金のかたに取られて、高校生の兄と中学生になったばかりの私は途方にくれたわ。誰も助けてくれなかった。海の見える、私たちの生まれた部落ではそんなことはなかったのに。あそこでは、みんな助けあって生きていたはずなのに。原発って暗い影はまず人の心を壊していったのね。
 その町を出る時、最後にもう一度我が家を見ようと、兄と峠に立ったの。一年も経っていないのにすっかり変ってしまってたわ。勿論私たちの家は跡形もなかったし、母とよく登った丘も削り取られてなくなつていたわ。父がいつも錨を降ろした小さな港も、友達と走り回った渚も全部無くなってたの。悲しい思い出も少しあったけど、楽しい思い出がたくさんあったわ。そんな大切な思い出のある景色が全く無くなってしまってたの。そしてそこは、コンクリートで埋めつくされていたの。私たちはもう、渚に座り波の音を聞きながら楽しい思い出に浸ることも許されないの。何って言ったらいいのかしら、そんな仕打をしたものが幸せをもたらすとは思えないわ」

 朋子は話しながら興奮していた。自分でもその事が分ったらしく話すのを止めた。
 私は不思議な気持ちで朋子を見詰めていた。時計を見ると、七時近かった。

 「あっ、いけない。七時に約束があるんだ。先にアパートに帰っててくれないかな。すぐ済ませて帰るから。食事は…」
 「作って待ってるわ。早く帰ってきて」


 青木の家を訪ねると、父親に玄関で迎えられ、応接間に案内された。すぐ陽子がコーヒーを用意して現れた。

 「不器男さん、ごめんなさい。電話で取り乱してしまって。」
 「いや、すぐ来ないといけないのに。ところで、一志の奴どうしたんです。一ケ月も帰らないって。」

 陽子と父親は顔を見合わせたが、父親が口を開いた。

 「先月、ちょうど一ケ月前、息子の奴が突然理由を聞かないでしばらく仕事を代わってくれと言いますので、その言い方がいつになく真剣なので、いいだろうと許したのですが、それ以来音信不通というわけです。」
 「一ケ月くらい留守ならいいのだけど、それが最近変なの。私この一週間いつも誰かに見られている気配を感じるの。それが兄のせいじゃないかって気がしてしょうがないの。」

 私は背中がゾクッとした。あれはやはり盗聴なのか。

 「兄はなにか大変な事に巻き込まれたのじゃないかって心配で。そして今日変な電話があったの。“一志さんからの伝言です。不器男に相談しろ。宝箱を探せ。”それだけ。気味が悪くて。不器男さん、なにか知ってる?」

 私は思わずニヤリとした。青木の言う宝箱はすぐ解った。彼は子供の頃、庭の大きな樟の根元にある空洞に宝箱だと言って小さな箱をぶら下げていた。
 それはやはり樟のうろの中にあった。私宛ての手紙とカセットテープだった。

 『不器男、俺はこれからY市へ行こうとしているところだ。行けば殺されるかもしれない。これは冗談じゃない。おまえがこの手紙を読むという事はその危険が現実に迫っているという事だ。けれど、俺は行かなければならない。今行かなければ、俺は生きている間一生後悔し続けるだろうから。
 今、俺は恋をしている。この歳になっておかしいが初恋だ。相手は例のパーティーで知り合った女だ。おまえが先に帰ったあと、俺は最後まで楽しんでいた。会場を出ようとした時、彼女は出口のドアに立ち、俺を見ていた。哀しい目だった。しばらく彼女の目を見詰めていた。彼女の方から視線を外し、背を向けた。それが彼女との出会いだった。
 夜中目が覚めると闇の中、彼女の哀しい目が浮かぶ。その目に見詰められると、“俺はほんとうはそんな男じゃないんだ。分かってほしい。”と叫びたくなる。しかし、彼女の目を哀しくさせているのは、“俺”なのだと己の身を振り返えざるをえない。
 俺からは言い辛いが、彼女はY市の菊池工業という原発関係の下請けをやっている社長の愛人なんだ。もう何年も、彼女が学生の頃からその関係は続いているらしい。例のパーティーもその菊池っていう男と一緒だったそうだ。彼女とその男の間には俺の入り込めない部分があるのだろう。
 恋とはこういうものなのか。不思議な気持ちだ。彼女とすれちがってしまうことは、全世界とすれちがってしまうことのように思われる。セックスはしていない。しないように努力している。並んで座って彼女の足と触れ合うだけで、柔らかい指先を見るだけで、胸のなかに何かが突き上げ下腹部も熱くなる。でも我慢している。やせ我慢だ。でもここはやせ我慢をする局面だろう。なにより彼女の哀しい目を見ていると、生々しい事はできなくなる。かわりに優しく抱き締める。目を閉じると、闇の中に哀しい目をした彼女が静かに笑っている。依然として彼女は俺にとって不明のままだ。俺は一人で空回りしているのかもしれない。
 そろそろ問題の核心に入らないと時間がない。彼女から大変な相談を受けたんだ。同封しているテープを渡され、どう処分していいか相談を受けた。あとでテープを聞いて欲しい。彼女がそのテープを手に入れたのは次のような事情だ。
 彼女は菊池から、東京から大切なお客さんが来るから相手をして来いと言われて、市内の料亭に出かけて行ったそうだ。行くとまだ“お客さん”は密談中だったので、彼女は別室で待たされていた。しばらく待ったが、手持ち無沙汰なので廊下に出ると、若い男が飛び出してきた。男は彼女に気がつくと、“頼む、これを預かってくれ。連絡先はここだ。”と言ってカセットテープと名刺を彼女に預けて走り去った。すぐあと、別の男達がその後を追って走り去った。しばらくして彼女は用はないと言われて帰されたそうだ。
 同封しているテープが若い男から預かったものだ。彼女は翌日の夕刊を見て俺に相談してきた。夕刊には、フリージャーナリストのT氏車の運転を誤って海に転落、溺死という記事が出ていた。名刺の男だった。そして、彼女も俺に相談してきた翌日、菊池に呼ばれてY市に行くと電話をかけてきて以来行方不明というわけなんだ。胸騒ぎがする。俺もこれからY市へ行こうと思う。彼女の行方を探すためだ。それと、テープに録音されている事の真相を見極めるためだ。テープの内容は全く理不尽だ。俺は久し振りに怒りを覚えた。危険な事だと思う。でもこのことで、俺は毎日感じている本来の自分を見出だせずにいる焦燥感から解放されそうな気がする。何よりも彼女の哀しい目が俺を呼んでいる。
 もう一つ気に懸かる事がある。テープの声の主の事だ。確かに聞き覚えのある声だ。不器男、頼みがある。この手紙をおまえが読んでるという事は、俺は多分危険な目に会っていると想像していい。Y市まで手助けに来てくれないか。七月十二日十二時、Y市駅前のいるかホテルのロビーで待っている。誰か代わりの者に行ってもらうようになるかもしれないが、よろしく頼む。それと万一の事があったら妹の事を頼む。』

 私がその手紙を読んでいる間、青木の父親と陽子は心配そうに息を詰めて私を見ていた。二人に手紙を渡すと、私は青木のことに想いをめぐらせた。奇妙な青木との一致点を想っていた。私もあのパーティーで朋子と知り合った…。そして本来の自分を取り戻そうとしている。
 ふたりが読み終えると、早速テープを聞くことにした。

 『県の方へは知らせる必要はありませんよ。 彼等原発が安全だと信じ込んでいるんでね。平岩さん、その点、国の方へ知らせてくれたあなたの処置は適切でしたね。』
 『……。』
 『まさかあなた方も原発が安全だと信じているわけじゃないでしょ。安全面だけで言えば反対派の連中の言う事は逐一正しいと私は思いますがね。』
 『……。』
 『まあ、良いでしょう。あの三人はこちらの指示どおり処分していただいたんでしょうね。良い方法だとは思いませんか。考えようによれば至極当たり前の処分ですがね。放射性廃棄物には違いないんだから。』
 『……。』
 『三人の処理にあたった職員にはしばらく監視を付けておくようにして下さい。死んだ三人のうち一人は地元の人間だそうですが、こちらでだびに付したという事で、遺骨を渡しておくように。金も忘れずに、そして監視も。』
 『遺骨ですか。』
 『どこかで適当に捜して下さい。残りの二人りはジプシーという事ですが、一応身元調査をお願いしますよ。まっ、不幸中の幸だと思いますよ。目撃した人間も少ないし、死んだ人間も日本人だけで。』
 『誰かいるぞ。』

 ここでテープは終わっていた。
 「警察に任せた方が良いのじゃないかな。堀さん。」
 「警察ですか。あてにはなりませんよ。むしろ危険かも。とにかく僕がまず行ってみます。一志との連絡をとるだけですから、無理なようなら連絡します。その時はお願いします。」
 「私も行くわ。」
 「だめだ、陽子ちゃん。これは危険な事なんだ。」
 「兄さんと連絡をとるだけじゃないの。」
 「とにかくだめだ。君がいたら僕が自由に動けなくなる。」

 陽子はしぶしぶ納得した。
 アパートに帰ると、ドアが少し開いていた。 不吉な予感。静まりかえっている。部屋の中はメチャクチャだった。迂闊だった。朋子は、ベットの上でぐったりしていた。さるぐつわを嵌められ、後手に縛られていた。

 「大丈夫?」と声をかけると、朋子は頷いた。さるぐつわを外すと、血のりが付いていた。朋子は私に抱きついたまましばらく震えていた。

 「何があったんだ。」
 「アパートに戻ってしばらくして彼等がやってきたの。男が三人。ドアには鍵をしてたはずなのに。私がいるのを見て彼等もびっくりしてたわ。私は殴られ、縛られたの。あっという間だったわ。三人であちこち何か捜してたわ。三十分程捜してたけど、結局彼等何も見つけることできなくて諦めたみたい。捜すの諦めると、若い男が私に近寄って来て、顔を平手で二回殴ったの。でも、もう一人の男が“やめろ、女は関係ない。”と言って止めてくれたの。その男の顔私知ってるわ。兄と一緒のところ何回か見てたから。」
 「捜してたのはカセットじゃなかった?」 「違うと思う。テーブルの上にカセットたくさんあったけど、目もくれなかったから。」 朋子はたいした怪我ではなかったが、恐怖心が湧いてきた。今まで冷静でいられたのが不思議だった。しかし恐怖心は黙っていると募ってくるが、一歩踏み出せば消えてしまうはずだ。
 「朋子、Y市で原発の下請けやっている菊池っていう人知ってるか。」
 「ええ。でも、何故社長さんのこと不器男さん知ってるの。」
 『やはり。』

 菊池、朋子の兄そしてテープの声の主、私がこれからY市で出会わなければならない男達との奇妙な関係を考えると、不思議な気持ちだった。怒りをストレートに彼等にぶつけることができるだろうか。
 「朋子、明日Y市へ行くけど一緒に来るかい。友達がそこで僕の助けを待っている。部屋が荒らされたのと関係があると思う。危険な目にも会うかもしれないよ。」
 「連れて行って。私不器男さんといないと不安なの。」

 その夜、初めて朋子を抱いた。


 Y市へ向かう列車の中、朋子は窓の外に拡がる、陽に照らされた白い海を見ていた。私は顔を戻した朋子に思い切って言ってみた。

 「今度の事が終われば、北海道で暮らそうと思うんだ。一緒に行ってくれないかな。占冠ってところで獣医やってる大学の先輩がいるんだ。牛も飼ってるし、奥さんはペンションもやってる。人手が足りなくて困ってるそうなんだ。二人が暮らせるだけの仕事はあると思うんだ。」

 その事はずっと考えていた。今の街で暮らせば、以前のバーのような嫌な目に何度も遭うだろう。それに私自身、新しい土地で人生をやり直したかった。長い冬が終わり春を待つ喜び、北国で暮らして初めて解るあの喜びを朋子と共に感じたかった。北へ帰れば若さが戻ってくるような気がする。
 気が付くと、朋子は私を見詰め泣いていた。

 「ありがとう。」

 私は朋子の手を取り、横に座らせ抱き寄せた。暖かく柔らかい朋子の体が私の手の中にあった。
 Y市に着くと、すぐ予約していた駅前のホテルに入った。部屋は広くて清潔だった。

 「しばらく来ないうちにすっかりこの街も変わってしまったわ。」と朋子は窓から町並を見て呟いた。

 「約束の時間だから行ってくるよ。僕の外は誰も入れないように。監視されてるかもしれないから。いいね。」

 朋子は頷いた。
 ロビーには誰もいなかった。ソファーが窓際に二組置かれている。奥はコーヒーラウンジになっていた。青木の指定した十二時になって、男が一人入ってきた。そして私の前に座った。タバコを吸う指を見ると、爪が黒い。顔色も悪かった。ジーンズに白の綿シャツ。知的な顔立だけがアンバランスだった。

   「堀さんですね。」

 咄嗟に「いいえ。」と言葉が出てしまった。男は立ち去りかけた。保証はないが、賭けるてみることにした。彼が連絡役かもしれない。

 「タバコ忘れていますよ。」

 私はセロハンカバーの中に伝言を挾んだタバコを男に渡した。
 “三時に五0七号室で待っている。”
 男は去った。私もおもむろに立ち上がると、部屋に戻り、朋子と二人で街に出た。アーケードの商店街を歩いた。人通りは余り無い。腕を組んで歩いていると、皆が振り返るそんな街だった。食事を済ませ、書店に入り市内地図とこの地区の五万分の一の地図を買った。 部屋に戻ると、二時だった。男が来るまであと一時間。少し用心しすぎたかなと思った。待つ時間は長い。この間にも青木の身に危険が迫っているかもしれないと思うと、気が気ではなかった。早く状況を掴みたかった。
 二時半、ドアにノックがあった。早すぎる。身構えた。

 「誰だ。」
 「私、陽子よ。」

 私はドアを開けると、陽子の手を掴み素早く部屋に引き入れた。

 「こういうことだったの。私が来ちゃいけない理由は。」

 陽子は朋子から視線を私に移し、嫌味たっぷりに言った。

 「ごめんなさい。ちょつと妬けちゃったの。 さっきロビーで二人の幸せそうな顔みて。私立候補するの遅すぎたみたい。冗談よ不器男さん。そんな困った顔しないで。彼女のこと紹介して。」
 「こちら、藤澤朋子さん。そして、僕の友人青木の妹さんで、陽子さん。」
 「藤澤朋子です。よろしく。陽子ん、私知らなかったの。あなたのような素敵な人がいるなんて。」
 『何を言い出すんだ朋子。』
 「陽子ちゃん。今からでも帰るんだ。あそびじゃないんだ。」
 「いいえ、私残るわ。隣に部屋取ってるの。兄さんを連れて帰るまでは私ここに残るわ。そうでしょ。家で待ってろて言うの。そんなのやはり私できない。」

 気まずい沈黙。私はソファーに座った。朋子と陽子は二つのベットに分かれて座った。 三時きっかりにノックがあった。ドアを開けると、先程の男が立っていた。

 「さっきはどうも。佐竹といいます。青木さんに頼まれて来ました。」
 「どうぞ入って下さい。私は青木の友人で堀です。こちらが青木の妹さんの陽子さん。そして彼女は藤澤朋子さん。よろしく。で、青木は今どうしてるんですか。」
 「それが、今監禁されています。」
 「どこに。」
 「原発、御存知ですか。その敷地内にある労務小屋に監禁されています。私も青木さんも原発で働いているんです。働いているといっても青木さんは二ケ月前に起こった事故の事を調べるために来てたんだと思います。でも箝口令が厳しくて、青木さん苦労してました。M市でのジャーナリストの交通事故死の事みんなよく知ってて、自分たちもうかうか喋ると殺されるんじゃないかとビクビクしてましたから。あの死んだ記者は、やはりここで働いていたんですよ。」
 「その事故はどんなものだったのですか。」
 「私にもよく分からないんですが、残業中に起こった事故のようでした。いくら秘密にしたってどこからか情報は洩れてくるものです。残業してた三人が残業があった翌日から見えなくなり、労務小屋が一つ閉鎖されました。今青木さんが監禁されている小屋なんですが…。噂では、大きな事故が起きて手がつけられなくて、あの小屋に三人とも入れられたんだという事でした。」
 「青木は何をして捕まったのですか。」
 「青木さん、電力の事務本館に忍び込んだんです。二日前の夜の事です。その前日、青木さんは私に計画を話してくれました。労務小屋から三人がいなくなった日の前後に作られた固体廃棄物を入れるドラム缶のナンバーを調べるんだと言ってました。そして自分が捕まったら、ここへ電話してくれと、電話番号と電文を教えられたんです。」
 「ところで、佐竹さんは青木とどういう…」
 「青木さんとは雇われていた会社が同じで、宿も一緒だったんで、話す機会がありました。私達の会社は菊池工業って言いますが、青木さん、社長の事をよく私に聞いていました。どこに住んでいるとか、どこに飲みに行くのかとか。青木さん夜はいつも外に出て、宿に帰るのはいつも夜中すぎでした。日に日に参ってきているのがよく分かりました。」

 そこまで聞いて私は青木のこの一ケ月の行動と彼の心情を想った。やはり来て良かった。彼をもう一刻も一人にしていてはいけない。

 「我々は、青木を助けるためにやって来たんです。佐竹さんも手伝ってくれませんか。」 「勿論、手伝わせてもらいます。僕は一人でもやろうと思ってた程ですから。」
 「ありがとう。救出方法ですが、ちょっと地図を見てくれませんか。」

 私は地図を拡げた。地図を中心に四人は車座に座った。
 「無理な点があったら佐竹さん言って下さい。決行は明日の朝五時にします。私と佐竹さんは夜明け前ビジターセンターのある付近から迂回して山を降り、原発近くの海岸で決行の時を待ちます。海の方からだったら原発に入れると思うけど、佐竹さんどうですか。」
 「入れると思います。一応海岸の方にもフェンスを張ってますが、大きなペンチがあれば簡単に切れると思います。警備も手薄ですし、青木さんが監禁されている労務小屋は海岸のすぐそばですから好都合です。」
 「それは良い。佐竹さん、あとで原発の見取り図書いてくれませんか。朋子、原発の近くの港で、君が動かせる小さな漁船借りれないかな。」
 「原発のすぐ西隣りにK漁港ってところがあるの。そこで借れると思うわ。」
 「話が終わったらさっそく行ってみよう。朋子と陽子ちゃんは、夜中車で僕達をビジターセンターまで送ったあと、K漁港まで行き、朋子は五時二十分に船で海岸まで我々を迎えに来て欲しい。それまでに青木を助けて浜に出てるから。陽子ちゃんは、そのままK漁港で我々の帰りを待つこと。車はすぐ出せるようにしておくこと。朋子も最高待つ時間は十分とし、それまでに我々が来なかったらすぐ港まで引き返し、警察に連絡するように。無茶な行動は絶対しないこと。いいね。」
 「分かったわ。」と朋子と陽子は頷いた。
 「乱暴だけど、どうだろうこの作戦は。」
 「シンプルで良いと思います。」

 そう言うと、佐竹は腰を浮かした。

 「船を見に行きませんか。私も同行させてください。ついでに身辺整理をしますから。」

 私達は陽子が乗って来たランクルに乗った。市街地から二十分程走ると、もう原発のある地区だった。

 「この山の向こうが原発です。さきに見てみますか。」
 「いや、まず船を見に行こう。」

 しばらく海岸沿いに車を走らせた。診療所や公民館が新築され、民家も新しい。海は深緑に染まり穏やかだった。遠くに島が見えた。

 「そこの道右折して。」朋子が言った。

 山道にかかった。車が一台やっと通れる程の道だ。夏草が生い茂り道にはみ出しているので走りづらい。ギヤを四駆に変える。すぐ尾根にさしかかった。尾根から見晴らすと、我々が立っている場所が内海と外海を区切るように突き出している半島の上だというのがよく分かる。登り詰めた先に見えるのが内海であるはずなのに印象は逆だ。茫洋と海が拡がっているだけで島影ひとつ見えない。しかし圧倒される程の美しさだ。朋子が話していた故郷とはこのような所だったのか。眼下に小さな港が見えた。

 「あそこよ。」

 港と言っても入江に小さな防波堤があるだけで、護岸に数艘漁船が繋がれているのが見えた。屋根の低い十数軒の家が猫の額ほどの平地にへばりついていた。人気がない。すっかりさびれてしまったという印象だ。

 「ちょっと行ってくるわ。」と言い残すと、朋子は集落の中に姿を消した。しばらくして帰って来た。
 「オーケーよ。明日朝四時からお昼まで借りてきたわ。」

 帰途、原発のビジターセンターに寄った。周辺は整備されて公園になっていた。入口で原発のPR用のパンフレットを渡され、中へ入ると広いホールがあり、その奥は一流ホテル並みのロビーになっていた。

 「上へ行ってみますか。」

 佐竹の声に促され、エレベーターに乗った。展望台になっていた。眼下に原発が見えた。異様な風景だった。山の緑と海の青さの中に不釣合に灰色のコンクリートの固まりが横たわっていた。

 「海岸に面した左隅を見て下さい。掘立て小屋がいくつか見えるでしょう。一番奥の小屋に青木さんが監禁されています」
 私は佐竹が指さした小屋を見詰めた。あそこに青木がいると思うと、気持ちが一気に高まってきた。

 「ゲートを見て下さい。ワゴン車が出てくるでしょう。菊池工業の車です」
 「菊池工業って会社、どういう会社なんですか」
 「原発の下請をやってますが、実体は、人夫出しといったほうがいいでしょう。でも馬鹿にしちゃいけません。社長の収入はこの辺りで一番じゃないかと思います。桁違いです。私たち日雇いの日当が八千円です。ところが電力から支払われる日当単価は一万八千円です。差引一人につき一日一万円の儲けです」
 「そりゃひどい」
 「菊池って男、もとはヤクザなんです。労務管理やっている社員はその筋の者ばかりです。金のことばかりじゃありません。あそこで働いている者は使い捨ても同然の扱いです」
 「どんな仕事やらされているんですか」
 「大きく分けると、管理区域外と管理区域内の仕事になりますが、管理区域外では被曝することはまずありません。よくネッコーという作業をやらされました。高圧給水加熱器の中でピンホールの検査をやるんですが、入口が五十センチくらいで、直径一メートル半くらいの半球の中で上下に分れて二人で作業をします。中は狭くて当然無理な格好になります。そして、すごい金属片の粉塵です。五分も我慢できません。そこから出ると、口に巻いていたタオルは真っ黒、顔も墨で塗ったように真っ黒になります。そんなのを交替で一日中、くる日もくる日もやらされるんです。労働の喜びなんてありません。するたびに腹がたちます。設計者は、機械の効率のことばかり考えて、定検作業をする者への配慮なんて全然持ってないんです」

 そこで、佐竹は自嘲するかのように笑った。その意味を私はその時理解できなかった。

 「管理区域内での仕事は放射線による被曝の恐怖にいつもさらされています。放射線を浴びることを前提にしたものですが、一応放射線管理教育というものがあります。でも、なおざりです。僕など内部被曝防御のマスクの着用方法すら教えて貰えず自己流で着用してました。でもマスクを着けると、息苦しく、熱くて長時間着用できる代物ではないんです。自然とマスクを外すようになります。
 一度完全装備で、タービン建屋の中でバルブのパッキンの取り替えをやっていた時ですが、分解中のバルブから汚染された水が噴き出たことがありました。防護服が濡れパンツまでびしょ濡れになりました。完全装備といってもそんなものです。そして、その噴き出た水で汚染された床をタオルで拭き取るのが除染作業といった具合です。
 もう一つ我々を馬鹿にした話があります。原発から出る固体廃棄物は一括してドラム缶に詰めてたんですが、最近燃えるものと燃えないものに分けて処理するようになったんです。可燃物は焼却したあとドラム缶に詰めるようになったんです。電力側にとっては、増える一方のドラム缶の減少になって好都合なんでしょうが、分別は我々の手作業です。馬鹿にした話だとは思いませんか」

 私は聞いていて呆れていた。私たちが先程貰ったパンフレットには、コンピューターとか最新の機器の並んだエアコンの効いた中央制御室が写っていた。しかしその裏では、非科学的とも言える手作業が原発を支えている。

 「あそこ見て下さい。大きな送電用の鉄柱が立ってるでしょう。あれが数百キロにわたって延々大阪方面まで延びているそうです。無駄な事だと思いませんか。鉄柱建てるコストだけでも。それに送電ロスもあるでしょ。都会で電気が要るのなら、大阪沖の埋立地にでも原発造ればいいんじゃないかと思うんです。送電ロスもないし、自然破壊もないし、温廃水だって冷暖房に利用できますしね。風景としてもここにはマッチしないでしょう。あんなコンクリートの固まりは」

 気がつくと、朋子は外をじっと見ていた。ここで朋子は暮していたのだ。朋子の言葉を思いだしていた。楽しいそして悲しい思い出もあったろう、そんな様々な思い出の残っている景色を丸ごとコンクリートで塗り固めてしまうような仕打、そんなものが人に幸せをもたらすはずがない…。私も同感だった。

 「朋子、帰ろうか」
 「うん」

 たぶん、この峠で朋子と朋子の兄は故郷に別れを告げたのだ。


 翌日午前三時、部屋を出た。ディーゼルエンジンの音が駐車場に大きく響く。その音にせかされるように急いでホテルを出た。街は静まりかえっていた。フェリーの発着する港へ走る数台の大型トラックにすれ違っただけだった。
 三時三十分、ビジターセンターの手前で私と佐竹は車を降りた。

 「それじゃ行ってくるよ。」

 私は助手席にいる朋子を見詰めた。

 「朋子、船を頼むよ。」
 「気を付けてね。きっと成功するわ。」と陽子が代わって答えた。
 見上げると、満天の星空。恐ろしいくらいの星の数だった。
 「それじゃあ、私達も行くわ。」

 森に入ると漆黒の闇だった。時々得体のしれない獣の鳴き声が遠くに聞こえた。明りを使わず一歩一歩足場を確かめて歩くので、なかなか進まない。夏草が生い茂り体に絡み付いてくる。

 「少し休みましょう。ここから下りです。」

 休むと汗が噴き出してきた。時計を見るとまだ十五分しか経っていない。すでに息が荒くなっていた。

 「さっ、行きましょう。」

 下りは楽かと思っていたが、そうでもない。 前が見えないせいもあって、木の幹を左右の手で交互に握り、それを支えにして降りたが、時々足を滑らせた。ひやっとする。かなり急な傾斜だ。しばらくすると磯の香りがし始めた。その時だった。
「あっ。」と言って佐竹が足を踏み外した。私は素早く佐竹の手を握った。すぐ下は海のようだ。波の音が聞こえた。

 「堀さん。離しても大丈夫です。足がつきます。」
 「なんだ。びっくりしたよ。」

 私も飛び降りた。満潮のようだ。崖下まで水がきていた。磯沿いに十分ほど歩くと、原発が見えてきた。事務本館に明りが見えた。小さな入江があったので、我々はそこで決行の時を待つことにした。しばらく休むと、少し空がぼんやり青くなってきた。

 「すっかり明るくならないうちに一仕事済ませておこう。フェンスを切っておくんだ。」

 フェンスは簡単に切れた。一ケ所だけつなぎを残して、二メートル四方に切断した。時計を見ると、ちょうど四時だった。五十メートル先に青木のいる小屋が見えた。外に見張りはいないようだ。

 『青木、あと一時間の辛抱だ。』

 引っ返すと浜辺に佐竹と並んで横になった。遠くにまだ漁火の消えていない漁船が見えた。

 「コーヒーどうですか。」
 「佐竹さん意外に度胸が良いなあ。コーヒー用意してくるなんて。」
 「いや、下へ降りても多分時間があると思って。海岸の夜明けは夏でも寒いでしょう。」
 「ところで佐竹さん、どうして原発なんかで働いてるんです。」
 「実は、以前原発メーカーで設計やってたんです。原発の設計です。仕事が好きだったので、どんなに忙しくても私は平気でした。でも妻は違っていました。何日か徹夜が続いたあと家に帰ってみると、妻が死んでました。自殺でした。田舎で見合いして結婚三ケ月目でした。今思うと、妻は見知らぬ土地で話をする人間といえば私一人だったんです。かっこよく言えば、今自分を罰しているんです。妻が死んで私はやっと自分のやってる仕事を客観的に見れるようになりました。それまで原発の安全性についてとやかく言う連中にはシロウトは黙ってろという感じを持ってました。でも私がその時徹夜でやってた仕事は、国の安全審査をパスさせるためのデータを捏造することだったんです。今私は放射線浴びて自分の仕事の責任とらされているんです。」

 しばらく二人とも口を開かなかった。海を見ていた。確実に夜が明けてゆき、空に青みが拡がってゆく。

 「そろそろ時間だ。」
 「行きましょう。」

 フェンスまで十五メートル、磯づたいに進んだ。フェンスのつなぎを切ると、小屋まで一気に走った。小屋の窓はすりガラスで中は見えない。扉には鍵もかかっていなかった。扉を開けると、中は資材や工具が散乱していた。奥の方で何かが動く気配がした。青木が縛られ、土間に転がっていた。

 「青木、大丈夫か。」

 さるぐつわをされていた青木は首を縦に降った。急いでさるぐつわを外し、縄をナイフで切った。青木の顔は日焼けし、頬はこけ、不精髭がのびて別人のようだった。

 「来てくれると思ってたよ。」と青木は力なく言った。
 「歩けるか。」
 「足をやられている。」
 「肩に掴まれ。急ごう、船が待ってる。」

 五時十分。小屋を出ると、よろめく青木を佐竹と二人で抱えて走った。フェンスまでの距離がとても長く感じられた。フェンスに辿り着くと、肩で息をしているのが自分でも分かった。佐竹が先にフェンスを抜け、私は青木を預けた。私が抜け出たその時だった。

 「そこまでだ。」

 朋子の兄が立っていた。その向こうに、朋子の乗った船が近付いてくるのが見えた。

 「佐竹さん、青木を頼む。」

 朋子の兄は落ち着いていた。前のような怒りを表に出した形相はないが、睨み合うと、その強さの印象にやはり圧倒された。時間がなかった。私は待ち切れなくなって突進した。しかし、相手の体に触れる前に腹を殴られ前につんのめってしまった。蹴られると思い、咄嗟に体を転がし、立ち上がった。吐気がした。真っ直ぐに立てなかった。

 「堀さん。」

 佐竹が近寄って来た。青木は岩に寄り掛かりこちらを見ていた。船はもうすぐそこまで来ていた。

 「青木を船に乗せるんだ。」
 「しかし…。」
 「行くんだ。これは私の問題なんだ。」

 私は一歩踏み込んだ。吐気は納まっていた。私は体勢を低くして飛びかかった。今度は相手の体に手が届いた。しかし続け様にパンチを受けクリンチの状態になった。朋子の兄は私の肩に手をかけ突き放した。私はよろめき、仰向けに倒れてしまった。朋子の兄はつかさず飛びかかって来た。私は思わず足で相手の股間を蹴った。

 「堀さん。今のうちです。逃げましょう。」

 佐竹は私を助け起こすと、肩を入れ、海を走った。青木の差し出す手が見えた。その手を握った。佐竹は先に船に飛び乗り、私を引き上げた。そして、私は船の中に寝かされた。しばらくして我に返った私は朋子を捜した。朋子は船尾で船の舵をとっていた。朋子が頷くのが分かった。

 「不器男、見直したよ。」
 「水をくれないか。」
 「いけすに缶ビールがあるわ。」

 口の中は切れてはなかった。体全体が甦ってくるようだ。

 「みんな乾杯しよう。朋子もやらないか。」
 「私はいいわ。」

 朋子の複雑な気持をその時理解できなかった。私は勝利に酔っていた。まもなくしてK漁港の入江に入ると、護岸にランクルの止まっているのが見えた。人影が二つあった。陽子ともう一人。我々は緊張した。

 「警戒しなくても良いよ。私一人だ。君達の顔が久し振りに見たくて待ってたんだ。無事で良かった。今回の冒険はどうだった。面白かったかね。」
 「やっぱり有沢おまえか。妹の手を離せ。」
 「そうむきになるなよ。昔の仲間だろ。」
 「おまえだな。テープの声は。」
 「ああ、このテープか。君の親父さんから貰ってきた。あまり意味はないがね。心配してたんだよ。君達がもっと何か知ってるんじゃないかと思って。そうだったら、いくら私でも君達を護ってやれなかったからね。」
 「俺達を護っただと。」
 「そうだよ。感謝して欲しいね、堀君。君達がこの二、三日やった事がいったい何だったと思う。全部私のシナリオどうりだったよ。ずいぶん殴られたようだね。適当に痛め付けて逃がしてくれと、藤澤君に頼んでおいたんだが、君も不思議だったろう。あの男に君が勝つなんて。僕は気が気でなかったんだ。早く君に行動を起こして欲しくてね。早く青木君を助けて欲しかった。菊池って男が青木君を殺したがっていたからね。ところで青木君、菊池の女を寝取ったそうじゃないか。」
 「恵子をどうした。恵子はどこにいる。」
 「死んだそうだ。菊池が嫉妬に狂っていびり殺したそうだ。でも菊池は、女が死んだのは君のせいだと逆恨みしてるようだ。青木君菊池にはこれからも気をつけるんだね。」

 青木は身を預けていた私から有沢に飛びかかり胸倉を掴んだ。

 「おまえという奴は、いつだってそうだ。この裏切者。」
 有沢は青木を払い除けた。よろめく青木を私は受け止め、有沢を睨んだ。

 「君達にそんな風に言う資格があるのかね。君達も私と同類じゃないか。現実を受け入れているのを、自覚しているか、いないかの違いだけだよ。青木君、君は歯医者をやってる。今の世の中の仕組みのおかげで、人並み以上の生活ができる。これは君の車だろ。高い車だ。女だって好きに選べる。高い酒も好きなだけ飲める。一ケ月原発で働いてみてどうだった。地獄だったろう。同じ時間働いて何倍もきつい仕事して、彼等は君の収入の十分の一にも満たない給料だよ。これが現実なんだ。君はこの現実を受け入れているんだ。堀君、君だってそうだ。私と同じ役人だから分かるだろう。役人だからあの凶暴な菊池だって思うように動かせる。
 かっこつけてどうするんだ。世の中狂ってるんだよ。人類の進化はどこかで狂って破滅へまっしぐらなんだ。もう少し開き直って楽しまなくっちゃ。女が一人死んだくらいで興奮するなんてみっともないぜ。あのくらいの女ならどこにでもいるじゃないか。原発だって必要なんだよ。束の間の人生を楽しむためにわね。世の中見てみろ。君らみたいなお人好しで理性のある人間なんて少ないんだ。希望なんてないぞ。無知で粗野で、欲の皮の突っ張った有象無象が世の中動かしているんだ。 これは忠告だ。世の中君らの力で変わるもんじゃない。それともう一つ、国家権力を甘く見ちゃいけない。大怪我するよ。」

 それだけ言うと、有沢は去った。私達は車の中で押し黙っていた。車は私が運転し、朋子が助手席、三人が後部座席に座った。曲がりくねった坂道を車は登ってゆく。しばらくすると尾根に出た。

 「わぁーきれい。海が光ってるわ。」

 陽子が叫んだ。眼下の海が朝日に照らされ、キラキラ輝いていた。五人の横顔も朝日を受け、光っていた。

 「私達のやったことは何の意味もなかったの?」と陽子がポツンと言った。
 「そうでもないよ。最後、有沢の奴にあんな事言われて水さされたけど、僕自身は精一杯やったと思ってる。この十年、自分を偽って生きてた。何かあると、いつも理由を考えて逃げてたけど今回は逃げなかった。自分を取り戻せそうな気がする。」と私が言った。
 「僕の場合、死に場所を求めてここまで流れてきたようなものですが、今生き抜いてやろうという気持ちが湧いてきました。」
 「有沢の奴、世の中無知で粗野で欲の皮の突っ張った有象無象の集まりで、希望なんてないと言ったが、俺はそう思えない。あいつの住んでる世界がそうなんだろう。そんな世界に住んでるからそれが唯一現実としか思えないんだ。原発の仕事は確かに地獄だったが、働いていた仲間はみんな真っ当で優しい人達だった。人間は捨てたもんじゃない、信頼できるって思えるよ。俺には希望が持てるぞ。俺自身もこの一ケ月で変わった。とことんやってやる。目的を持った行為はいつか効果を生むはずだ。狂った世の中もいつか変わる。必ず変わる。恵子の犠牲は無駄にしない。」

 青木の顔には怒りだけじゃない強い意志が感じられた。
 みんなの雰囲気が明るくなってくるなかで、朋子一人が浮かぬ顔をして正面を向いていた。朋子は私の視線を避けていた。何か私の知らない別のものを彼女は見ているのであろう。

 「不器男、何か音楽でもかけてくれ。」

 私は後部座席のにぎやかな笑い声を遠くに聞いていた。朋子はもっと遠くに感じられた。


 「何か食べて帰ろうか。」
 「私、疲れたわ。」

 青木達と別れて朋子と二人で街を歩いていた。

 「私、帰るわ。」
 「帰るって…。」

 朋子には、どこか入り込めないところがあった。一緒に暮らしてもこうなのだろうか。
 「話があるんだ。僕のアパートまで来てくれないか。」

 朋子は振り返ると、悲しく微笑んだ。

 「私、やっぱり帰るわ。さようなら。」

 朋子はそう言うと歩き出した。私は自分でも不思議なくらい、躊躇なく朋子の手を掴むと、強引に引っ張った。

 「来るんだ。」

 私の部屋に帰ると、朋子の兄が椅子に座り、我々を待っていた。我々に気が付くと、朋子の兄は煙草を消し立ち上がった。

 「朋子、戻って来るんだ。一緒に東京へ行くんだ。」

 優しい兄になっていた。

 「お兄ちゃん一人で行って。私を自由にして、お願い。堀さん、私と一緒に北海道で暮らそうと言ってくれてるの。私、堀さんについて行きたいの。」
 「朋子、忘れたのか。おまえは人並の生活で幸せになれるとまだ思ってるのか。今までの生活を考えてみろ。諦めるんだ。お兄ちゃんと東京へ行くんだ。」
 「……。」
 「堀さん、朋子の事は忘れてくれ。お互いの為だ。我々は普通の兄妹と違うんだ。生きるためなら何でもした。妹のポン引きもした。第一、妹の最初の男は、実の兄のこの俺なんだ。それも仕事で。シロクロショウってやつだ。」
 「もうやめて。」

 朋子はそれだけ言うと、部屋を飛び出した。私は後を追おうとした。その時、朋子の兄に殴られ気を失ってしまった。
 気が付いた時はすでに手遅れだった。朋子の行方はそれ以来杳として掴めなかった。私は仕事を辞め朋子を探し歩いた。しかし、朋子の事は何も知っていないという事実を思い知らされただけだった。彼等兄妹は、法的にはこの街には存在していなかった。
 私は最後のチャンスに賭けることにした。身辺整理をし、現金に換えれるものは全て換え、退職金と多少の貯金とを合わせて全て新聞社に持ち込んだ。新聞の一面を全部買取り、朋子へのメッセージを書いた。

 『朋子、八月二十日午前十時三十分、東京行、五八三便だ。空港ロビーで待ってる。』

 出発当日、空港ロビー。青木と陽子そして佐竹が来てくれていた。十分前、最終搭乗案内があった。朋子はついに姿を現さなかった。私は諦め、航空券を二つに分けると一つをカウンターに差し出した。

 「不器男、気を落とすな。彼女おまえの行く先は知ってるんだろう。きっと会えるさ。俺の方でも探してやる。それとこれを取っとけ。」

 飛行機の中にもやはり朋子はいなかった。目の前が暗くなった。気力が全く失せていた。羽田では接続の千歳行には乗らず、東京で一週間程飲み続けた。青木が空港で渡してくれた封筒には百万入っていた。その後、汽車で北帰行を始めた。仙台、盛岡、青森そして函館。行く先々で酒に酔い潰れた。札幌では、三週間友人のアパートに転がり込んでいた。有沢の勝利の声が聞こえるようだった。
 時間とは残酷なものだ。二ケ月も経つと、朋子への思いも薄らいで来た。飲む金ももうなかった。石勝線に乗り、占冠へ向かった。一時間半程で到着した。
 黄葉が始まっていた。澄んだ秋空に黄金色に色づいた木々が夕陽を浴びて輝いていた。バスを降りしばらく歩くと、木立に囲まれた丸太小屋が見えてきた。

 「山崎さん、遅くなりました。」
 「堀、おまえ、どこうろついていたんだ。心配させやがって。」
 「すいません、俺一人です。」
 「聞いたよ。青木さんから電話があった。新聞一面全部買ったそうじゃないか。無駄金使いやがって。何だ、しけた面して。もっとシャキッとしろ。ここではただ飯は食わせないぞ。嫁さんの方がずっとしっかりしている。これ以上嫁さんに心配かけるな。」
 「えっ……。」
 「トモちゃん、旦那のご到着だ。」

 十メートル程先にある倉庫の扉が開き、ジーンズ姿の女性が現れた。長い髪をうしろで束ねた頭がこちらを向いた。小麦色に日焼けした朋子が夕陽を浴び立っていた…。私は涙が溢れてきて止めようがなかった。

  inserted by FC2 system