ワールド・アパート


 現代芸術(映画も含めて)は、とりわけ日本に於いては、強烈なメッセージに傾向的な臭いを感じ取り、不偏、不党の形式美に芸術の本質を見ようとして美の象牙の塔=“ワールドアパート”(隔絶された世界)にこもってしまっているのではないか。そして、結果として現代芸術は人々の魂を打つ力を失ってしまったのではないだろうか。

 このところ私は思想と感性(芸術)の問題を考えあぐねていたせいもあって、映画『ワールド・アパート』を観たあとの余韻のなか家路を急ぎながらそんなことを考えていた。

 『ワールド・アパート』は観る者の魂を強く打つ力を持っている。言葉は少ないが、確かなメッセージを持っている作品である。

 現代日本においては、前述した芸術分野だけでなく、社会制度や政治経済の矛盾に対して意見を表明するという行為には“眉をひそめる”というリアクションがともなう。若者からは、「ダサイ」「クライ」「おしゃれじゃない」といった反応がかえってくる。

 しかし、『ワールド・アパート』を観た者は、社会制度や政治経済の矛盾にしっかり目を向け確かな精神的主張をもった人間がいかに美しいか、そして人間としていかに共感できるかを理解できると思う。

 『ワールド・アパート』は背景としてアパルトヘイト(原語はApartheid、 アフリカーンス語で隔離を意味する。南ア共和国の全人口の約16%を占める白人が、残り84%の非白人を人種に基づき差別していることをさす。「人種隔離」と訳される。)を設定しているが、表現の形として政治的メッセージを強く表面には出すことはしていない。

 映画は、白人のなかでは数少ない反アパルトヘイト支持者を両親に持つ少女モリー目を通しての現実を淡々と描いて、彼女の精神的成長の過程を追ってゆく。母親ダイアナとの対立と和解(共感)の過程でのふれあいをとおして、そしてメイドのエルシーとその弟で黒人解放運動のリーダーでもあるソロモンとの交流をとおして、《“平和”な少女時代=ワールド・アパート》から一歩踏み出し、厳しい現実をみつめ、黙過できぬ状況に対しついに“ノー”と言うまでの姿を描いている。(父親ガスは、映画の冒頭、治安警察の目を逃れて国外に脱出している。モデルとなったのは、モリーのモデルでもあるこの映画の脚本家ショーン・スロボの父親、ジョー・スロボである。ANCと南ア共産党の白人最高幹部。26年現ソ連領リトアニア生れ。この映画のタイトル「A WORLD APART 」  の命名者でもある。)

 物語の背景になっているアパルトヘイトの実態はいったいどういうものだろうか。

 近年集中的に人権侵害の犠牲になっているのは子供たちである。南ア政府は子供たちを運動を弾圧する道具にしているのだ。人権監視グループの報告によれば、84年から86年までに約11,000人の子供たちが裁判無しで拘禁され、1,000人が負傷し、300人が殺害されたという。逮捕されるや、子供たちは休みなしに何時間も尋問されその間殴打され続ける。拳やムチあるいは銃床で殴られ、首締めや、電気ショックによる拷問が行われているのである。

 それではこの南ア政府のアパルトヘイト政策に対して、日本政府はどういう態度をとっているのか。今年1月7日からパリのユネスコ本部で開催された化学兵器に関する国際会議の席上、南アのボタ外相が壇上に上がると各国代表が抗議して席を立ち会場を出てしまったにもかかわらず、日本政府代表は席に座り続けていた。ここに日本政府の南ア政府に対する態度が象徴的に表れている。

 確かに日本政府は、公式見解としては南ア政府のアパルトヘイト政策に強く反対している。しかし実際に行われていることをみるかぎり、それはむしろ全く反対の“親南ア政策”と言わざるをえない。

 87年、日本が南ア最大の貿易国になったことはスキャンダラスな事実として大きく報道されたが、それに先立つ85年、南アの経済危機が公然化したときに、日本は南アからの輸入を急増させ、南アの外貨獲得に多大の貢献を果たした。これは、南アのアパルトヘイト 体制を支える“経済援助”以外のなにものでもなく、各国の経済制裁の効果を弱めることになったのである。

こういった日本の行動を世界はどう見ているのだろう。

 「南アからの米企業撤退の空白を埋める非倫理的な日本企業の行動。最後の審判の日まで、アフリカはこの裏切りを忘れないだろうと日本に宣言する。」(アフリカ労組統一機構代表)

 これを、政府がやってること、企業がやっていることで、我々一般市民には関係ないと言えるだろうか。プラチナやダイヤモンドは勿論のこと、トウモロコシ、砂糖、えび、墓石用の花崗岩、パルプ 、羊毛、毛皮、車その他、日本市場には南ア製品があふれている。一般消費者もアパルトヘイトを続ける国との貿易構造にとっくに組み込まれているのである。多少の想像力を持ち合わせていれば、我々もアパルトヘイトに協力している事実を知ることができるのである。

 我々一般市民の沈黙が政府、企業のこうした行動を許しているのである。 そういった一般市民の沈黙に対しても、世界の目は厳しいものがある。

 「……日本では、草の根からの反対運動が弱いために、政府は南アフリカ政策に関して行動の自由があります。西欧諸国では街頭などでも目につくぐらい、明瞭な反アパルト運動がありますが、日本では、運動はあることはあるのでしょうが、誰の目にも明らかな運動というほどではありません。」(ANC駐日代表J・マツィーラ氏)

 明仁新天皇即位後朝見の儀の言葉のなかに憲法の前文を引用したと思われる「国際社会に名誉ある地位を占めるに至りました。」という一節があるが、アパルトヘイト政策に対する対応を含めて、日本の国際社会での動きを見ると、私にはとうてい日本が「国際社会に名誉ある地位を占めるに至」ったとは思えない。逆に日本は孤立し、南アと同じ“ワールド・アパート”への道を進みつつあるのではないだろうか。

 それはすなわち我々国民自身が“見ざる、聞かざる、感じざる”を決め込み、一見居心地の良い“ワールド・アパート”に閉じこもっているためでもあろう。

 もし、豊かな感受性と共感性を持つ人ならば、アパルトヘイトに苦しむ人々の痛みを皮膚で、ナイフで切られた傷のように感じることができるはずである。そして、それは決して“遠い国”の“遠い出来事”では終わらない。 在日朝鮮人、『被差別部落』出身者、アイヌ人、『障害者』、老人、子供に対しての(ときには容姿に対してさえの)差別や人権侵害。映画でも見ることのできた“被疑者”に対する肉体的、精神的拷問。逮捕勾留期間を形骸化させる不当・違法な別件再逮捕といった人権侵害。

 南アのアパルトヘイトを真剣に考えるということは、日本国内での差別や人権侵害を考えるということであり、一方それに無関心でいることは、日本国内での差別や人権侵害に無関心でいることである。

 たしかに、アパルトヘイト 、人権侵害について語ることはできても、感じることはむづかしい しかし、少なくとも映画「ワールド・アパート」を観ていた約2時間のあいだ私はモリーの目を通して痛みを感じることができた。そして、母の生き方を見詰め、理解し精神的成長を遂げるモリーの姿を見ると、子供への真の愛情とは、ひとりの人間としての生き方を示すことに外ならないと、私は二児の父親として感じるのである。

 最後に、世界教会協議会の南ア・アパルトヘイト問題ミッション訪日団のチカネ牧師の1月29日山手教会での呼びかけの言葉を聞いてもらいたい。

 「日本も白人政権を支えてきた。せめて南ア政権を支援することだけはやめてほしい。人権、モラルについて考えている人は一緒に立ち上がってほしい」

  inserted by FC2 system