遠い夜明け


 少し古い話であるが、映画「遠い夜明け」を見た。丸の内ピカデリーで試写会が行われた時、監督リチャードアッテンボローが舞台挨拶に立ち南ア政府のアパルトヘイト政策に対し熱弁をふるったそうである。その中で、南ア政府のやっていることは、disgusting and obsceneと彼は言い、通訳に立った戸田奈津子さんは、「南ア政府のやっていることは、醜悪で猥せつだ」と直訳風に訳した。映画を見た者にとっては、その意味がよく解る。また、戸田奈津子さんがおもわず「わいせつだ」と訳した気持もよく解るのである。

 映画の内容は、黒人指導者ビコと新聞記者ウッズの友情を通して南アのアパルトヘイトの実態を描いている。ビコに会う前のウッズはプール付きの豪邸に住み、黒人のメイドを雇い何不自由なく暮らすリベラルなただの白人だった。ビコに対して一定の理解を示しながらも“白人差別主義者”で危険な人物だと彼の行動を論評する。

 しかし、ウッズはビコにそして彼の友人達と出会うことによりしだいに変わってゆく。黒人居住区を訪ねた時、ビコの友人がウッズに語った言葉が印象に残っている。

 「黒人は、白人の家へ昼間メイドとして働きにゆくなどして白人の生活を知っている。しかし白人は、黒人居住区に足を踏み入れたことがなく、黒人の生活の実態を知らない。」

 人種隔離政策は同時に白人を黒人世界から隔離させることになっているのである。白人は黒人への差別に対して無知なのである。ウッズは黒人差別という「醜悪で猥せつ」な実態を知ることにより目覚めてゆく。

 この南ア政府を経済面で支えているのが日本である。1987年の日本の南アフリカ共和国に対する貿易額が前年比で20%(円ベース 2%)も伸び、2位米国に15億ドルの差をつけ、ダントツの首位になった。各国政府や企業が国内世論に応え対南ア貿易を大巾に減らしているときに日本はこのありさまである。米国をはじめ各国が日本非難の論評を加えたのは言うまでもない。

 朝日新聞の特派員記者がこの時期、南アで駐在日本人から次のような話を取材している。「日本は西側の一員として今こそ南アを助けてゆくべきだ。経済制裁などすべきでない。」「名誉白人として恥じないように振舞おう。」「この国の人たちはかわいそうな歴史を持っている。彼等の気持ちも分かってやらなければ。」この「かわいそう」というのは南アの白人のことである。もっとかわいそうな立場にいる黒人のことは忘れられ頭に浮かんでいない。

 これらの記事は日本人の国際性のなさというより、あまりの無知さかげんを指摘することとなっている。対南ア貿易は日本の世界貿易全体の1%にすぎない。南ア貿易に固執することにより他の世界市場を失うことに気がつかないのだろうか。

 度の過ぎた無知は(厚顔)無恥に通ずるのではないのだろうか。首相が、「国際国家への道」を内容とする講演の中で「知的水準」発言をし、世界中から一斉に指弾されたのが良い例である。

 国際化とは、他者たる諸外国に出ていってその中でひとつの地位を占めることであるはずなのに、かの元首相は「他者」を理解することなしに、あるいは、自分に都合のよいステロ化されたイメージですませておいて、「国際国家へ進むという発想の反面には自らを知るというのが、同じエネルギーで研究されなければならん。」とされ、このことは「日本民族の名誉」や「精神性の高さ」を知るうえで重要だとされた。ますます日本人は無知を原因とする「鎖国感情」の中に閉じこもり他者の見えない状況に陥っているのではないか。

 映画「遠い夜明け」を素材として“無知”について書いてきたのは、この「鎖国感情」と「他者の見えない状況」の長い枕詞と思っていただきたい。 わが県庁もこの「鎖国感情」の中に閉じこもっていないだろうか。他者が見えているだろうか。忙しさのあまり“白く塗りたる庁舎”に閉じこもり、県民が見えない状況に陥っていないだろうか。

 内部処理のための仕事に振り回され、御都合主義と馴れ合いそして保身の弊害に毒されていないだろうか。県民に目を向け仕事をしているだろうか。 先の県議会で原発出力調整試験が取り上げられ、大きな話題となったので、これを例にとることを許してもらいたい。

 環境保全課の職員のみなさんは、議会対策及びマスコミ対策で大変な忙しさだったと思う。忙しさが募ると、その忙しさの元凶である反対派の人達や、マスコミの人達を敵視し、また“我々プロがこんなに努力しているのだから安全にちがいないんだ。シロウトは黙っていろ”という危険な陥穽に落ち込みはしなかっただろうか。はじめに安全ありきという状況ではなかっただろうか。

 プロのプロである元原発設計技師が次のように書いている。

 「公式に電力会社や行政機関に提出される設計計算書は、けっして第三者が正確にチェックできるしろものではない。極端な言い方をすれば、公的な計算書は形式にすぎない。もし設計者がその気になれば上位の審査機構をごまかすことは簡単である。」

 技術論だけでなく、次のような実態も見すごしてはならない。

 原発の燃料であるウランを日本は南アの不法統治するナミビアからの“密輸”に多くを依存しているという実態である。(南アのナミビア不法統治を支えている。)採掘現場で働く黒人労働者はウラン鉱山であることも、放射能に関するいかなる知識も知らされていない。

 また、日本の原発の使用済み燃料が英、仏の再処理工場でプルトニウムとなり、将来アラスカ上空を空輸され日本に返還されることになっているが、地元アラスカでは反対運動が盛り上がっている。アラスカ州上下両院も全会一致で空輸反対を表明している。

 日本の原発は、諸外国の犠牲の上に成り立っていることを知るべきであろう。そして、そうした日本の姿勢は諸外国から多くの批判を受けていることも事実なのである。

 こういった事実も頭の片隅に入れて仕事をして欲しい。「そんなこと百も承知だ。」と言われそうであるが、たった一人暗夜に、胸に手をおいて、「自分は、まず第一義に県民の安全を考えて仕事をしている。上司の顔を窺って仕事をしているのではない。馴れ合いと御都合で仕事をしているのではない。」と言い切れるだろうか。

 環境保全課のみなさんを批判しているのではない。私自身、自分の仕事での対応を考えてみて、そうは言えないのである。我々は聖人君子ではない。ただ、幅広い視野と高い見識をもって仕事をしたいのである。そして生活の質(QOL)を高めたいのである。

 この思いを妨げているものは何だろう。一つに「超勤地獄」と言われる忙しさではないだろうか。この慢性的な忙しさはいったい何だろう。年間通して月に平均100時間から200時間の残業という実態。毎晩(毎朝)家に帰るのが一時過ぎで「一週間風呂に入っとらんのよ。」という友人の話も聞く。そして超過勤務手当の支給率が30%以下の職場もあるという実態。「僕の超勤単価100円です。」と笑って言う友人がいる。そして、この超過勤務手当の支給率が職場によって違うという実態。

 人事当局は、予算の手当てのない超過勤務命令はださせていないということだが、額面どおり受け取って言わせてもらえば、それは“無知”である。(厚顔)無恥に通じる無知であろう。勿論、人事当局もそういった実態は十分承知でいろいろ努力されているのであろうが、努力もたりないし、見当違いも多いのではないか。

 忙しさを緩和する方策は、単純に考えれば二つであろう。人を増やすことと仕事を減らすことである。紙面が限られているので、仕事を減らすことに限って言えば、特に本庁の仕事量は減らそうと思えばいくらでも減らせるのではないか。本省人事の某部長が決裁にに来た職員にある質問をしたところ、一週間程して分厚い資料それもワープロでわざわざ作った資料を持って結論を説明にきたそうである。その間係長、課長補佐、課長、次長、とああでもない、こうでもないと資料を手直しされ一週間残業をするはめになったのであろう。某部長はその場でその職員と議論をしてみたかっただけたそうである。

 この話に象徴されているようにわが県庁の組織は無駄な仕事の増殖炉になっているのではないか。職員定数を増やすことは勿論必要であるが、この増殖炉を止めない限りこの忙しさはなくならないのではないか。

 「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしもそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう。」(マタイ 書)

 いまや古い皮袋は張り裂ける寸前ではないのか。我々は奴隷(governor servant) でも囚われ人でもないのである。古い皮袋のままならそれを破るエネルギーを持っているはずである。それとも、やはり夜明けは遠いのであろうか。

     湯の中で泳ぐべからず!? 

   温泉で泳いじゃいけないの? 
   どっぷりと温泉気分に 
   つかってばかりじゃ
   心と体にとっても悪い!
   ちょっとでも、泳いでみれば
   きっと、新しい何かが見えてくる。
   近ごろ、そう思いたいね。
                 Jeff
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