木々は光を浴びて


 県民文化会館の周囲を散歩すると、時々お付きの運転手さんと一緒の白石前知事さんをお見かけする。「お元気ですか」と声を掛けると、にこやかに笑ってうなづかれる。その時、私の印象に残ったのは前知事の“せかせか”とした歩き方である。勝手な解釈だが、あの歩き方が白石氏の人生をそのまま現しているのではないかと思った。

 戦後の荒廃した郷土を見て“わしがやらねば”という思いで、40年県政に携わってこられたのだろう。それがすなわち権威主義的な県政であった。そしてベクトルの向きは、東京を典型とする経済的豊かさであった。高度成長期にあっては、それが理想であり、又、パイはたくさんあり、実現できた。ただ議論する暇もないほど忙しかった。

 高度成長期という嵐が去った今、我々は反省の時期にきているのではないだろうか。こんな、今にあっては言い古されたことを言うと、なんだと思われるかもしれないが、東京一極集中化がみられる現在、取り残される危機感から、進歩主義、東京志向の亡霊は、テクノポリス、テレトピア……というバラ色の衣を着て濶歩しているのである。しかし経済合理性からいけば、東京を中心とした地域への集中は避けられないことではないだろうか。「その他地域」は経済合理性とは別の価値観でもって自分の地域を考えてもいいのじゃないかと思うのである。

 下河辺淳さんが、ある対談でこんなことを言っている。

 「自分とか、自分の地域の価値を見つけることが、わりに重要なんじゃないでしょうか。自分が情けなくて、自分の地域が情けないので、未来に何か明るいビジョンを描きたいという考え方も一つの考え方ですけれども、そうではなくて、ひょっとすると、自分とか自分の地域が非常に大きな価値を持っているという認識が出た時に、どういう考え方が出てくるかということが重要じゃないでしょうかね。」

 「その地域だからこそ嬉しいんだというような人がもっと出てきませんかね。東京圏とその地域というときに、俺たちはそのた地域だからこそ豊かなんだという考え方が、もっと出てくると思うんですね。」

 下河辺さんは東京圏に住んでいるからこそそんなことが言えるんだという反論が聞こえてきそうだが、私は共鳴する部分が多い。東京が豊かだとは思えない。豊かさの象徴である高層ビル群。あれは狭い(貧しい)から上へのばすのであろう。新宿の街に立つと私は「ああ、なんと貧しい風景」だと思う。松山の我が家には、春になれば陽光の中、ほととぎすの鳴き声が聞こえ、近くの丘には、桜が新緑の木々の中に見え隠れする。豊かなところだと思う。 この思いは、日本は果たして豊かなのか、現代は果たして豊かになったのかという疑問に行きつく。すなわち、豊かさの本質の問題である。

 世界人口の50分の 1にすぎない日本は、市場に出る熱帯雨林の半分を輸入している。フィリピン政府の資料では、1960〜84年に 1億立方メートルの丸太が輸出され、その65%が日本向けである。これを日本の山林でまかなっていたら、日本の山は、はげ山になっていたのではないか。フィリピンの森林率は60%から27%に大巾ダウンしている。その結果、広大な熱帯雨林の中で焼畑農業をし、米を栽培し、野生の動植物を食糧とし、まきを得、家畜の飼料を得、自給していた住民の生活、文化、生存そのものが脅かされているのである。他国の人々のもっと言えば、地球の痛みを理解できない日本の豊かさとは何なのだろう。

 ここに縄文時代の食・経済生活を考証した資料がある。縄文人はドングリ等の木の実を加工して主食としていたらしい。同じくドングリを主食にしていた旧赤桶村の生活(「斐太後風土記」(明治 6年) に詳細に記されている)と類比して縄文人の生活を考証してみると、彼等は、年間に必要なカロリーの約80%を約10日間のドングリの収集という労働でまかなえたのである。そして、シカ、魚等を適宜採集すれば良かったのである。彼等は想像以上に豊かでのんびりとした生活を送っていたであろう。現代人の余暇も忙しく消化するという状況と比較してみてどうなのだろう。

 下河辺さんの話に戻ろう。

 「(価値の)逆転というよりも、本質的な議論かもわからないね。今の先進性の方が異常な議論かもしれないわけですよね。逆転とかじゃなくて、本来的なものかもしれないでしょう。産業革命以降の資本主義だ、社会主義だと言ったりして、がたがた、がたがたした19世紀、20世紀がむしろ異常かもしれないわけですよね。そういう新しい議論の上で地域が議論できればいいんだけれども、そういうのは公共団体の職員が勉強してやるべきじゃないですかね。」

 経済合理性を超えた価値観にもとずく愛媛の豊かさとは何だろう。我々はこういう方向でアプローチする時期にきているのではないのか。

 低成長期に入った今、配られるパイは少ないが、いや、だからこそ、長期的ビジョンで深く考え、広く議論すべきであろう。幸い今は“わしがやらねば”という情況ではなく、県庁は、県下一の頭脳集団である。この優秀な人材をただ指令のままに動く、もの言わぬ機械人間にしておくのは惜しい。若い職員のシナリオのない討論から新しい政策が生まれてくるはずである。 伊賀知事の力量はこの優秀な頭脳集団をいかに生かせるかにかかっているのではないかと思われる。

 今回も話が拡散し、理念に流れてしまったが、oddmanの意見として聞いていただければ幸いである。   inserted by FC2 system