愛する人のために仕事をする


 「バビロンの流れのほとりにて」の中で森有正がこういうことを言っている。「仕事というものはいったい誰のためにするのだろう。仕事自体のため、という人もある。自分自身のため、という人もある。どちらも決して本当ではない。仕事は心をもって愛し尊敬する人に見せ、よろこんでもらうためだ。それ以外の理由は全部嘘だ。」(筑摩書房 単行本版p43)このあと森有正は中世の宗教芸術の例を示し、仕事の対象になる存在が仕事の質を決定すると書いている。森有正も言っているとおり、これは実に恐ろしい問題である。ここでは、思想家のレベルから我々一般市民の現実の生活レベルで考えてみよう。

 今のように管理化がゆきとどき、又忙しい状況下にあっては、「仕事というものはいったい誰のためにするのだろう」という問いかけ自体持っていないというより持てない人がほとんどではないだろうか。多くの場合、目の前のハエを追うように、右から左へ仕事をこなすだけで精一杯といった状況ではないだろうか。もはやこれは仕事ではなく苦役としての労働である。

 そして我々は、仕事を見せて喜んでもらう対象である「心をもって愛し尊敬する人」をも見失いがちではないだろうか。多くの人は正直言って、擬制上の上司に認められるため仕事をしているのではないか。これは自己保身又はつかのまの安寧もしくは出世を求めての行動であろう。しかし、これは結局、組織維持のためにしかすぎない。

 このように我々のおかれている現状は、仕事それ自体に意味を見い出せず、 又仕事の対象となる存在をも見い出せない状況である。

 この空しいリンクから脱け出す方法はあるのだろうか?これはある意味では簡単だ。誰のために仕事をするのかを明確に認識すれば良いのだから。誰のためにするかが認識できれば「仕事」も意味を持つことになる。

 森有正は神を仕事の対象として一例を示したが、我々は人間を対象とすることができる。我々は心から愛することのできる存在を身近に持っている。それは、配偶者であり、子供であり、親兄弟であろう。家族を対象としてとらえた事が、仕事の質をおとすとは考えられない。

 教育関係の職場にいたとする。小学校から塾通いの生活、校則により髪の長さ、スカートの丈、靴下の色まで管理されている中、高校生。この実態を見て、愛する者のために、教育関係の職場にいる者は仕事に対してどう責任を持ったら良いのか。

 保健関係の職場にいたとする。添加者だらけの食品、原発の集中立地、国、 業者が説く安全性を無闇に信じて良いのだろうか?

 我々は県庁の枠組みに自己規制してひたすら迎合してはいないだろうか。それは何のためにといった目的意識を持たず、ひたすら指令のまま効率よく働く機械の一部として生きることになるのではないか。

 それではいけない。我々は仕事に際し、家族のためによく考え発言すべきである。そうすれば仕事は格段と面白くもなり、意味を持ってくる。

   これは又我々の人間としての尊厳にもかかわってくる。イエスマンであり続けることは、自分を機械の一部としてしまうことだけでなく、互いに批判や対抗のできない、信頼のないうすきみ悪い効率だけの社会をつくることに手を貸すことになるのである。子供達にそういう社会を我々は与えることになるのある。

 我々は愛する者にそんな社会を残して良いのだろうか?自由であり、他者を尊敬できる社会、自分の生きる意味を感じることのできる社会、他者の幸せが自分の幸せと感じることのできる社会、そういった豊かな社会を我々は愛する者のために残してやりたい。

 それは我々の仕事にかかっているのである。愛する人のために仕事をしようではないか。

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