中の川(帰り道)

1 中の川の源流
 小学校の時、帰り道は中の川沿いに帰った。今回その中の川を調べてみて、その源流は通っていた八坂小学校すぐ近くの斎院樋堰と分かった。
 中の川はもともと松山城の外堀を灌漑するために造られ始めたたがその後農業用水、海運の用途に使われた。
 斎院樋堰で取水されると、国道の下を横切り八坂小学校の南に水路となって現れる。
2 斎院樋堰
 取水口を石手川側から見た写真。就職してからも川の堰はいったい何のためにあるのか考えもせずよく分からなかった。河川行政の仕事をしていた友人に聞くと、堰があるところは必ず取水口があるということを教えられた。
 大部分が農業用水で、かつて日本全国には水路がいたるところに張り巡らされていたことも知った。
 その後柳川に関する書籍や映画そして直接柳川を訪れる機会があり、なるほどと思った。
3 八坂小学校南側
 八坂小学校南側に現れた水路。右上を通る国道が改修された時様変わりして昔の面影はないように思う。
 記憶では小学校の裏に小川が流れていたように思うのだが。
 一度現れた水路はまた地下に潜る。
4 八坂小学校正門
 40年前入学した時と変わっていないのはこの正門だけかな。
 校舎は今コンクリート造りの2棟が北側に配置されているが、当時は、南側に木造平屋造りの1・2年生用の校舎があった。そして渡り廊下に続いて西側に図書室、門?、教員室があった。
 そして北側に木造3階建ての校舎が中庭を挟んで2棟あり、東側に体育館があった。
 体育館の横には背の高いポプラがあったが今はそれもなくなっている。そのポプラの木の横に裏口があった。
5 築山町付近
 八坂小学校裏で地表に出た中の川はすぐ地下に潜る。白いポール状の柵の左のコンクリートの下に水路がある。
 この辺りも国道の拡幅で様変わりしていて、かつては土手に木々が植栽され春先には花が咲き乱れていた。
 右手のマンションは当時、製材所があった。その前には銭湯があった。その銭湯が火事になったことがあり、製材所が近いこともあり、大騒ぎになった
6 新立町付近
 5で書いた銭湯の横辺りからまた地表に出る。白い柵の左が中の川。
 当時の家並みの内1軒が残っていた。残ってる家は2階建てだが、多くは平長屋だった。
 道路拡幅の影響で、現在の中の川は水路となり幅も半分くらいになっているが、当時は川幅も広く、学校帰り、この辺りから我々は、中の川の中を歩きながら冒険を楽しんだ。
 というのは、写真の先に見えるガード下で、中の川は旧国道11号線を横切るため、また地下に潜る。その真っ暗な川を我々子供たちは進んだ。
7 新立橋北側
 旧11号線下のガード。この右横あたりの地下を中の川は流れており、我々はその中を進んだ。
 新立は当時国道沿いに様々な店が建ち並び賑わっていた。映画館も2軒あった。
 そして交通の要所でもあったようで、ガードの上に写っているマンション付近には、切符売り場のある大きなバス停があった。
 小学校の頃、ねだって買って貰った捕虫網を持って、このバス停からバスに乗り家族で白猪の滝まで行ったことがある。
8 新立・築山境
 この辺りで中の川はまた地表に出て我々の冒険も終わる。当時の中の川の川底には茶碗のかけらなどが散乱していた。ランドセルを背負い、靴を手にもち、足元に注意を払いながら、先に見える明かりをたよりに暗い川底を歩くのは慣れていてもいつも冒険だった。
 写真のコンクリート蓋は当時はなく、この先しばらく中の川地表に現れていた。
 写真を見ると、中の川沿い全て白い柵があり、川底も水が流れるだけの水路になってしまっている。子供たちの身近な冒険は無くなってしまったようだ。
9 寄り道
 8の築山町の方に入ったところに当時の家が残っていた。このあたりはバブルの時期にもあまり開発が行われなかったようで、昔の家並みが残っている。
 当時はこのあたりに伊予絣の機織工場があったと思うのだけど、残念ながら残っていなかった。
10 多賀神社への道
 8の写真の突き当たりの手前にこの路地がある。当時このあたりまで中の川は地表に出ていた。
 角の家はK君の家で、当時は家の蔵になっていた。蔵を持つ裕福な家庭のK君を皆でよくからかった。
 中の川はここを右折して12の道の下を流れるのだけど、我々は左折して、この路地を(当時は石畳?)進み、迂回して11の道に進んだ。
11 永木町
 というのは、この道沿いには色んな店があったのと、このあたりから石手川に降りることが出来たからだ。
 麦藁帽子の店や豆腐屋、アイスキャンデー屋、武道具店、布団屋等があり12の道を帰るより面白かった。
 夏になるとそのアイスキャンデー屋さんに行くのが楽しみだった。店というよりアイスキャンデー工場という感じで、注文すると、アイスキャンデー製造機の内部を覗けることも楽しみだった。あの懐かしいアイスキャンデーもう一度味わいたい。
12 記憶のない道
 この道の下を中の川は流れているのだけど、この道を歩いた記憶が浮かばない。もしかしたら、この道の下の中の川を冒険の続きで歩いたのかな?
13 永木町・錦町
 写真の右に車が駐車しているあたりが「12記憶のない道」の端。しばらく道路下を流れ、写真この付近で地表に現れる。そして中の川の堤は石積みとなり、「立派な」川になる。土手には、中の川にとってきってもきれない柳が初めて現れる。
 川の右側が永木町で左側が錦町となる。錦町側に「唐人町」郵便局が今もある。
14 錦町・傘屋さん
 40年前、この家は傘屋さんだったと思う。道に面したガラス戸の向うには、いくつかの傘が、たぶん洋傘だったと思うけれど、並んでいた。その頃でも店にお客さんが入っているのを見たことはなかったので、商売としては成り立っていなかったと思う。
 でもその頃以前までは商売として成り立っていたのだろう。八百屋、魚屋、肉屋、駄菓子屋、仕立て屋、豆腐屋、アイスキャンデー屋、下駄屋、小さな店がその生業だけで一家の暮らしを支えることのできる社会だった。
15 永木町・ニコホン
 ニコホン綿の松山営業所だと思う。当時から変わらず残っている。例のマークは剥げているが。
16 永木町交差点
 勝山通と千舟町通り、河原町通りが交わる交差点。中の川はこの地下を左から右に流れる。当時は写真中央雲の方に延びる国道11号線はこの場所になくて石手川にぶつかったところで勝山通りは終わりだった。
 40年前も大きな交差点ではあった。秋祭りの時、ここで各町の大人神輿がぶつかり合った。その時期になるといつも背の高いイナセナな遊び人のお兄さんが僕の前に現れた。話をしたわけではないが。10年程前にその人にあったが見るも無残な姿に変わっていた。
17 勝山通り
 勝山通りは銀杏を植えたロータリーが上一万の電停まで続く。写真の中央1本目の銀杏の前に見えにくいが鳥居がある。それが18番の八坂神社である。
 当時、道路が拡張される前まではロータリーももっと広かった。夏祭りか秋祭りか忘れたけれど、ロータリーの木の間に白布を張って映画が上映されたことがあった。何の映画だったかな?
18 八坂神社
 小学校3年くらいから集団登校というのが始まって、この八坂神社が集合場所だった。
 また遊びの場所でもあった。当時は木造のつくりだった。その回りで我々は当時の遊びを楽しんだ。釘を地面に打ち付けて陣地を広げていく遊びや、輪ゴムを砂に埋め針金で引っ掛けてとる遊び、磁石を転がして砂鉄を集める遊び、そして「パッチン」やぶつけゴマ。当時の呼び名を忘れてしまったなぁ。
 紙芝居のおじさんもここにやって来た。飴売りのおじさんもやってきた。みんな自転車でやってきた。
19 南八坂町
 当時の我が家のちょうど前に今も残る当時のままの家である。こんな平屋の家が当時は多かったように思う。
 この家の家主は子供のない老夫婦(子供の私には老人に見えたが実際は今の私くらいか)だった。何時も家にいてスピッツを部屋で飼っていた。貸し金業をやっていた。
 この家の隣に小鳥をたくさん飼っている家があって私と同い年の女の子がいた。幼稚園も一緒だった。でも小学校に入学する前どこかへ引っ越していった。私の初恋かな?
20 永木町・湊町
 16の続き、永木町交差点で地下に潜った中の川は永木町2丁目ですぐ地表に現れる。ここから市駅まで柳の木のゆれる中の川が続く。
21 大理石の橋
 河原町交差点近くの中の川のかかる大理石の立派な橋である。今は交通量が多いので通る人はほとんどないが、この中の川通りがまだ狭くて交通量も少ない頃は結構利用されていたのだろう。私が子供の頃もそういえば渡っていた。
22 ホトトギス発刊の地
 最近作られたのだろう。ホトトギス発刊の地の碑である。柳井町に建っている。
 碑の説明によると、「ホトトギス」は柳原極堂によりこの地で発刊され、その後、高浜虚子が東京で引き継いだとある。
23 正岡子規居宅跡
 ここも柳井町。正岡子規の家は中の川に面して建っていたのだろう。
 背景に見えるマンションは当時はダイゲキという映画館だった。ロードショー館ではなく3番館で、料金も安かったけれど映画館自体汚く、フィルムの状態も悪かった。
 確か高1の時、18禁の映画を見に行ったことがある。ところがセックスを科学的に解説分析したドイツ映画で全く期待外れの映画だった。あるおじさんが「金返せ」と叫んでいた。
 子規さんすみませんこんな話をこの欄にのせて。
24 正岡子規母妹居宅跡
 子規が上京した後、子規の母と妹は23の地から西に100メートルほどのこの地に転居したと記されている。
 話はまた飛ぶけれど、この碑の前湊町側に、日活の映画館があった。小学校の時、航空自衛隊を舞台にした映画を見たことがある。ロマンポルノ路線に移った後も何度か入ったことがある。入る時十数人いたのにカーテンが下がり劇場が明るくなった時誰もいなくなっていた。ポルノ映画を見る時の作法はこうなのかと思った。
25 市駅に続く中の川
 子供の頃、この辺りの中の川は怖かった。中の川に被さるように小さな飲み屋が軒を並べていた。飲み屋といってもその場で売春もやってた。子供の頃はそんなことは全く理解できなかったけれどなんとなく怖い感じがあった。
 ここから中の川は、市駅裏を通り、コミセン横を流れ、宮前川と合流し、最後は瀬戸内海に達する。一度最後まで歩いてみたい。


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