ハレの日の三越

写真1
 松山三越は、第二次世界大戦で焼け野原になった松山市の復興の先駆けとして、昭和21年に「三越松山支店」として開店した。初代の建物は、木造平屋一部2階建で、店舗面積約763平方メートルと小規模ながら、戦後の愛媛の経済を牽引するシンボル的な存在であった。また、昭和26年には、松山で初めてのファッションショーを開く(写真1)など、文化面でも貢献してきた。

絵葉書及び写真2
 絵葉書及び写真2(撮影は昭和34年)は、昭和31年に県内初のエスカレーターを備えた3階建て2代目の建物、私の子供の頃の三越である。ただ、絵葉書でいえば、手前に見える屋上の反対側というか奥側に塔のような増築部分があったように思う。そこまで階段で登れたような記憶があるのだが、、、。
 屋上に出ると犬猫が売られていたり木々や草花が売られていたコーナーがあったと記憶している。屋上広場には休憩用の椅子が並べられていて、隅には小さなステージがあったように思う。そして反対側の隅には小さな商売繁盛の神社があり、その向こうに前述の増築された建物があったように思う。

 子供の頃、南八坂町に住んでいたので、大街道の南端千舟町に接するあたりはよく行っていたのだが、北の端の一番町に接する三越周辺部は特別な日にしか行かなかった。子供だけでは行けなかった。親に連れられて年に1〜2回、三越の最上階にある一番町側に展望が開けたレストランに行くのが三越に行くことのできる唯一の機会だった。子供だけで、普段着で行く場所ではなかった。
 当時もたしか、大街道側そして二番町側からも三越への入り口があり、正面玄関の一番町側からは入店した記憶がない。その大街道側の入口の向かえには「ロンドン屋」というレストラン?があり、そこで年に1回くらい「氷ロンドン」といって美味しいかき氷を親に食べさせてもらうのが楽しみだった。「三越」と「ロンドン屋」に行くのは、我が家のハレの日の行事だった。


写真3
 写真3の上段の写真の撮影は昭和42年、4階建のホームランが建っている。キスケビルと呼ばれていたと思うが、1階にパチンコ店があり、上階にはボーリング場そしてビリヤード場が入っていた。その経営者がヒノキスケさんだった。当時の都市伝説として語られた噂話では、三越が増床新築のためこのホームランの土地を購入しようとヒノキスケさんに話を持ちかけたところ、逆に三越の土地をワシが買おうと断られたという。

 結果写真3の下段のような3代目の三越が昭和46年に完成している。結果、現在でも松山三越の敷地は歪で、現在でも入口は、一番町側のほか大街道側そして二番町側にある。一番町側にライオン像があるので、一番町側が正面入り口と思われるが、多くの人は大街道側から出入りしている。 ヒノキスケさんには悪いが、松山の街の顔である大街道の入り口にパチンコ屋があるのは 少年の頃にも何か違和感を感じていて、大学生になって県外の友人が訪ねて松山の街を案内すると、恥ずかしいなと思った記憶がある。

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