旧松山東警察署〜勝山通り

写真1
 写真1は、昭和15年5月勝山町に落成した松山東警察署庁舎で、城郭を模した建物であった。明治31年、旧出淵町に建設された庁舎が、老朽化に伴い危険となったため、昭和15年5月31日、松山市勝山町の現在地に新築移転された。そして現在の建物は、昭和42、43年度の継続事業として着工、昭和44年3月に完成。ということは写真1の先代の建物は戦災にあわず焼け残ったのか?子供の頃の記憶は写真1のまま、威風堂々として権威の象徴のような建物だった。このあたりは私が通っていた八坂小学校の校区ではなく東雲校区だったのであまり行かなかった。でもとても強く印象に残っている。
写真2
 写真2は、昭和46年の写真だが、画面の右端に勝山通りの銀杏の植えられた中央分離帯が見える(右手に見える大きな建物は、今もそのままの形で現存する愛媛相互銀行本店)。ここからずっと南に下がりかつての町名でいうと、唐人町通りからが八坂校区だった。八坂校区の端の角に阿部みこし店があり、そこを過ぎると八坂神社があった。八坂神社は、当時始まった集団登校の集合場所であり、子供たちの遊び場であった。メンコやコマをしたり、釘を地面に投げて刺さると陣地を広げるような遊び(何という名前の遊びだったか忘れた)を日がな一日やったものだ。
 ある時間がくると、紙芝居のおじさんがやってきて数分の短い時間だったが紙芝居を見せてくれた。南洋にお島に住むナマケモノという動物が描かれた紙芝居が今でも鮮明に思い出す事ができる。当時の少年たちはそんな情報から夢を膨らませていたのだ。その後5円か10円のお菓子を買わされた。砂糖で作られたキャラクターを針で完全に切り取ると砂糖飴で作った大きなお菓子が貰えるのだが、貰えたことはなかった。
 そして祭りの時期がくると、八坂神社前の中央分離帯に映画のスクリーンが立てられて映画の上映会が開催された。モノクロの時代劇だったが大人も子供も群がるように大勢集まって見たものだ。この時代は映画全盛の頃で、八坂校区にも映画館が新立に2館あった。
写真3
写真3は、北持田町にある愛媛県教育会館で、愛媛県技師浅香了輔によって設計された木造3階建の重厚な建物で 建築は昭和12年。 材料は、桜や栂を使用し、洋風意匠に和風装飾を組み合わせた特徴的な意匠を持っており、昭和前期の建物としては、類例のない貴重な建築様式で、屋根の破風には懸魚が施されている。現存している。
 後年大学生の頃、この建物を発見して、東警察署はこの場所に移築されたのかなと勘違いをしばらくしていた。写真で比べると東警察署の方が随分と立派だ。どこかに移築されていたら観光名所になっていたのではと思う。

帰りたい風景目次へ inserted by FC2 system