沙羅双樹


 古都奈良を舞台に繰り広げられる物語。この作品には、特別な音楽や激しい効果音 などは一切、用いられない。そのことで、逆に日常の音が引き立たされている。虫の 音や走るときに踏む砂利の音、そんな、「ならまち」の日常を生きる人の「生」が 「音」によってより鮮明に表現されている。この映画で唯一といっていい音楽を担当 するのは、映画『水の女』のUA。彼女の歌声は「ならまち」の日常と上手にかみ合 い、決してそれを壊すことがない。

 映画にはストーリーが必要である。どんな映画でも「ただ日常を描く」だけでは作 品にはなり得ない。河瀬監督は、この映画を物語として描くために、双子の兄弟、圭 と俊のうち、圭を「神隠し」にあわせるという非日常を映画の冒頭にもってくる。  突然の兄、圭の失踪に途方に暮れる家族。それでも日常は無常にも流れゆく。

 月日は流れ、兄の失踪から5年後の「ならまち」で日常を生きる家族を中心に物語 は描かれる。5年後、高校生になった俊は幼馴染の夕に淡い恋心を抱きながら、どこ かぎこちない関係だ。そんな思春期のフレッシュな思いが、古い「ならまち」の伝統 的な空気に涼やかな彩りを与える。

 ならまちの日常を描いた作品。しかし、日常の中にふっ、と衝撃を与えるような 「告白」が行われる。日常を描いている分、その「告白」に重みが与えられる。たと えば、夕の出生の秘密。夕の母親、晶子が夕に自分が本当の母親ではない、と告げる 場面は印象的だ。そんな驚愕の事実を知らされるが夕はそれをすんなりと受け入れ る。本当は戸惑いがあったに違いない。でも、その後の「お母さんの関西弁変だよ」 の一言がその戸惑いを軽くさせる。晶子の告白があったからといって何かが変わるわ けではない。晶子が夕にとって、今までどおり、お母さんであることには何も変わり がない。

 この映画を象徴する台詞は俊の父親、卓の言葉であろう。

「忘れてよいこと、忘れちゃあかんこと、ほれから忘れなきゃあかんことがあんね ん」

 圭の失踪という「喪失」を経験した傷を負った家族。そんな家族が日常を生きてい くには、この3つの矛盾するように思えるカテゴリーを共存させることが必要だ。そ れは、晶子と夕との関係にも言えることであるし、何より、2003年を生きる我々に とっても言えることだ。この3つは矛盾しているかもしれない。でも、この3つを共 存させながらでないと、我々は日常を日常として生きていけない。こんな当たり前な 共存が現代の都市社会の中ではできにくくなっている。古都奈良の伝統の残る「なら まち」を舞台にしたこの映画の世界では自然とそれが行われている。その不思議さが この映画の魅力なのであろう。

 でも、きっと都市化され、現代化され、忙しく毎日を送る我々にも本当はできるこ となのだ。忘れてしまっているだけで。

 「沙羅双樹」。相対し合う一見、矛盾しているようなカテゴリー。カテゴリーなん ていう言葉を使ってしまうから分離して、決して交わらないようなものに思えるのか もしれないが、実は我々はそれらを共存させることができる、そんな人間の不思議さ と可能性を感じさせてくれる作品だったと思う。  


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