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 専門家でない我々が政治的な文脈で映画『プラットホーム』を語ることは容易ではな い。しかし、たかが映画だ。中国の文化史にさほど詳しくない我々にも何かが語れるだろう。つまり、映画の巻頭唐突に献辞される「父に捧げる」の言葉がわれわれ観客にある種の緊張を強いたり、『プラットホーム』というタイトルが意外と呆気なく意味づけされたり(“待ち続ける”場所の意らしのだが)、はたまた、へんてこなロックバンドが登場したりする荒唐無稽さがいささか退屈ではあっても。

 瞠目すべきはファーストシーン。フェイドインすると何やら群衆が大きな絵の前で噂話を囁きあっている。その長回し。カメラは動かないのだが、そのシーンには不思議な躍動感が感じられるのだ。気づくと、ヒソヒソ話しをしている群衆が微妙に体を動かしている、まるで風に吹かれる葦のように。それがシーンに息吹きを吹き込んでいるのだった。我々はその魔術にまず驚いてしまう。

 続いて夜のバスの中。劇団員たちが小便に行って遅れているミンリャン(主人公のひとり)を待っている。その長回し。入念な演技のリハーサルが繰り返されたのだろう、出発を待っているバスの中の劇団員たちのやり取りと、やがてバスに乗り込んできたミンリャン。段取りは頗(すこぶ)る良い。「さあ、出発だ。」バスの室内灯が消え真っ暗になる。まさか・・・。我々は唖然とするだろう。なぜなら、バスはそのまま、つまり真っ暗な室内のままカットを割ることもなく走り出してしまう。まさか、と思う。そこまでやるとは・・・。テオ・アンゲロプロスのワンシーン・ワンカットも真っ青だ。

 案の定と言うべきか、その後は多少の退屈を我々に強いながら断固として俳優のクローズアップを拒否し、この「父に捧げられた」映画はオリジナル3時間半を1時間削ったために生じたストーリーの破綻などに動じることなく、最後にはこの世は「一瞬の夢」(監督の処女作のタイトルであることは言うまでもないが)であることを我々に知らしめるであろう。

 しかし、我々が本当に心動かされるのはこの映画の懐古的趣味や政治的意図にではなく、列車の通過シーンや劇団を離れていった女の子がラジオから流れてくる恋愛の歌謡曲にあわせて突然踊り出すシーンなど、ジャ・ジャンクー監督が随所に散りばめた、真の映画作家でしか撮りえない「映画」の断片にこそある。
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