誰も知らない


  「この映画は実際に起こった事件をモチーフにしていますが、登場人物の日常生活や 心理描写に関してはフィクションです」 

 この映画の上映前には、このような意味合いの説明が文章で画面上に表される。こ の説明が最初になされていなければ、私のこの映画に対する評価は格段に落ちたと 言ってよい。

 是枝監督の映画は前作『ディスタンス』でもそうだが、実際に起こった事件をモ チーフにして、リアリズムで描かれる。その描き方のリアリティさといったら、現在 の日本の若手の監督の中で右に出るものはいないだろう。その描き方の背景には、役 者本来の持つ自然体な表現をそのまま映画にとりいれたり(台詞を含め)、役者自身 が撮影の中で見せる成長をそのまま取り入れたり、役者自身の嗜好性などをそのまま 生かしたりする手法がある。この手法により、是枝監督は映画にドキュメンタリー的 なリアリティさを与える。

 この「誰も知らない」という物語は実際に起こった一般的には「西巣鴨子供4人置 き去り事件」と呼ばれている事件をモチーフにしているそうだ。「誰も知らない」の パンフレットによると、

 「事件は当初警察が妹の死を兄による折檻死と断じたこともあって、家族の絆が希 薄になっている現代の都市の闇を象徴する出来事としてセンセーショナルに報道され た。しかし、この少年が逮捕された当時14歳で罪に問えなかったことに加え、弁護士 によって折檻死の事実そのものが否定されると、メディアの批判は母へと集中する。 「淫乱オニの母親」「地獄の子供たち」「無責任セックス」−週刊誌には刺激的な見 出しの文字が踊ったが、その一連の報道に触れながら僕(是枝監督)の中にひとつの 疑問が生まれていく」

と書かれている。マスメディアは週刊誌にせよ、新聞にせよ、売り物である。売り物 は売れなければならない。それらがいかにも客観的な事実を語っているように我々は 思いがちだが、そこに描かれているものはセンセーショナルに脚色された事実とはか け離れた商品としての物語やもしれぬのだ。悲惨な事件はメディアで連日のように報 道され、その度、私達は分かったような気になって、しばらく経つと、済んだような 気になり、そして忘れていく。しかし、当事者達の現実は物語ではない。当事者の現 実は今もなお、続いている。多くの当事者はおそらく、メディアによって、もてあそ ばれた後、多くの大衆に偏見を受けたままで、その現実を受け止めていくしかないの だ。

   是枝監督はそこに疑問を感じ、そこにメスを入れ、この映画を作ったのだと思う。 その家族の中にあった「幸福感」を描き出した。

  「父に、そして母に捨てられた彼が、なぜ妹たちを捨てずに「家族」を守ろうと必 死になったのか?」 「確かにこの不幸な事件は母親の無責任さが生んだものであることには違いがな い。しかし、彼女がひとりで子供を産み、曲がりなりにも育ててきたのだということ も又動かしようのない事実である」

是枝監督は、パンフレットの中で上記のようなことも語っている。是枝監督は決し て、マスメディアでは報道されない当事者の日常生活や心理描写に踏み込んだのだ。 しかし、これは危険な賭けであると同時に、たくさんの批判にさらされるであろうこ とを覚悟しなければならない勇気のいる行為である。

私はそこを評価したい。しかし、どれほど、リアリティを追求してもこの映画はあ くまで「フィクション」である。その域は決して踏み越えられない。

なぜなら、是枝監督もそして、私達も当事者では有り得ないからだ。私達にできる ことは「想像」だけである。

 実際の事件は、少年に友達が出来て、それまで閉鎖的でありながらもある安定を獲 得していたユートピアが、外部からの侵入者によって破られ、内部崩壊した、とパン フレットには書かれている。

     この映画では結末は実際の事件とは異なっている。私はこの映画の結論を観させて もらっていない。というか、是枝監督自身、この映画の結末を描いていないと私は思 うのである。ラストシーンは確かにある。「紗希も加わって、もう一度四人になった 子供たちが、おにぎりをもらって住まいに帰ろうとしている(「誰も知らない」のパ ンフレットp.21大久保賢一氏の映画評より引用)」シーンである。

 しかし、このシーンは結論ではない。映画はこの先を描かない。おそらく、現実的 な視点に立てば、この先、末妹の死体が警察により発見され、4人の生活は終わる。 この「現実になるであろう結末」をこの映画は描かなかった。これは是枝監督の逃げ であるのか、それとも子供たちの世界観を最後まで崩さない映画として描くためだっ たのか私には判断しかねる。だからこそ、冒頭の「この映画は実際に起こった事件を モチーフにしていますが、登場人物の日常生活や心理描写に関してはフィクションで す」という説明が絶対不可欠なのだ。この説明があるからこそ、この映画はあくまで 「フィクション」として(しかも、多くのマスメディアの作り上げたフィクションと は違う形のフィクションとして)、生きる。私はそういう視点からこの映画を我々の 想像力を広げる引き金としての「フィクション」として評価する。

 


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