キンスキー わが最愛の敵


 たしかにキンスキーの演技は尋常ではない。おそらく強靱と脆さを同時に兼ね備え たかれは、おのれの脆さを隠すためなら相手がだれでも永遠に攻撃できる。

 だいたいヘルツォークの映画は、自分の妄想のために「自然」を相手に格闘すると いうのが、おもな主人公の役どころなのだが、おどろいたことにと言べきか当然と言 うべきか、キンスキー自身が妄想にとらわれた文字通りの狂人だった。なるほど若い ころに演劇を独学で学んではいるのだが、かれの「狂気」は計算ずくの「演技」とは 無縁である。だからキンスキー自身は「狂気」を飼い慣らすことはない。かれにあっ ては「狂気」こそが「自然」なのである。あえて言えば1日24時間あるいは1年365日 ブチ切れることのできる役者がキンスキーだ。たぶん監督にとってはもっとも組みた くない相手であろう。

 だがヘルツォークの映画にはキンスキーが「絶対」に不可欠であった。あの映画と おなじように撮影現場でも暴れに暴れまくるキンスキーだが、だけれどキンスキーを 最終的には操りおおせたヘルツォークこそ、映画への過剰なまでの愛を持っていた監 督だと言えよう。かれの映画への愛はキンスキーの「狂気」をも超える愛であり、か ような愛もまたどこかで「狂気」を含んでいるのである。だとしたら「アギーレ」や 「フィッツカラルド」が「自然」を相手にそうしてみせたように、ヘルツォークがキ ンスキーの「狂気」と闘うというのは、かれが監督として持ちあわせていた「自然」 がそうさせたと言うこともできる。

 だから「狂気」を無邪気に撒き散らすキンスキーよりも、ちょっと目には温厚そう に見えるヘルツォークの「狂気」のほうに、かえって深い畏敬を抱いたというのが偽 らざる印象である。


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