水の女


 美しい映画だと思った。最初にさかさまに映し出される「水の中から眺めたような、青空と草原がゆらゆらとゆれている景色」から始まって、この映画は常に「自然への回帰」を映像と音楽で映し出す。UA扮する主人公の「水の女」をはじめ登場人物達も「水」「火」「風」「地」という古代から伝わる四元素になぞらえられる。
 彼女は夢を見る。映画の冒頭に映し出された「水の中から眺めたような、青空と草原がゆらとゆれている景色」だ。なぜ、さかさまの映像なのだろう、とわたしは思っていた。物語の途中でその答えは明らかにされる。彼女の父親らしき姿がぼんやりと草原に浮ぶ。 「そうだ、こどもは男の子でも女の子でも『涼』にしよう」。そう、この映像は母親の胎盤の中から、彼女自身が見ていた映像なのである。
 この物語は「自然回帰」の物語だ、と冒頭にも述べた。「自然回帰」とは「自然」によって「回復」するということだ。そのことは、もう一人の主人公浅野忠信扮する「火の男」の物語を通して、語られる。
 彼は、過去に犯罪歴を持っている。傷ついた彼が行きついた先が唐突なのだが彼女のいる銭湯だった。彼女は不思議な魅力の彼を受け入れ銭湯の釜場を任せることになる。「火」を見ると落ちつくという彼にとっては、とても居心地の良い場所だった。そして、すべてを洗い流してくれる「水の女」が側に居てくれる。この物語の中でUA扮する「水の女」は巫女的な存在である。「いつまでも、おったらええやん、ずっと…」と「水の女」は「火の男」に言う。「火の男」は「いつまでも、なんてないやん」と答える。そして、「火の男」は燃え尽きてしまう。
 彼のそんな姿をみて、「水の女」は願う。「来い」と。すると雨が「火の男」をつつみ、彼を纏う「火」をゆっくりと包み込み、やがて消し去る。「火の男」は死んだが、彼の魂はきっと救われている。「水の女」は日本古来からの「祓い」を司る巫女なのだ。彼女は男の「穢れた精神」に巣食う炎を鎮火する。
 徹底した「自然主義的な映像」と「浪曲などの古典的な音」のコラボレーションは観客を魅了する。映画の手法に疎い私は純粋に、このコラボレーションを観客として楽しむことができた。計算された映像と音楽なのだろうが、普通に観客として見ていれば、彼の手法に観客は魅了される。「STEREO FUTURE」の中野裕之が「未来」を軸にして、映像と音楽のコラボレーションを見せてくれたとすれば、杉森秀則は「過去」を軸にして、映像と音楽のコラボレーションを我々に見せてくれる。彼のその才能には見せられるものがある。これがデビュー作だというからこれからが楽しみである。次回作もぜひ見てみたいと思う。  


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