「人生に説明できない事もある」 ギュネイ監督「路」より



 不合理そして過酷な政治・宗教の支配の下、屈従せしめられる民衆。仮出所を許された囚人たちの一人メメット。彼を待ち受けていたものは、やはり過酷な現実、そして新たな「罪」と告発。彼はうなだれる外ない。その時のつぶやきが冒頭のセリフである。

 権力者は常に、「そのように定め、そのように行え」と生活の隅々まで民衆を管理し、「定め」に従わない者あるいは従えない者にも、執拗にそしてしばしば暴力的に説明を求める。しかし、人生には説明できない事だってある。

 そういった場面で、憤りを爆発させることができず、屈折した屈従の態度をとらざるをえない事がある。時には「一方の頬を殴られたら、他方の頬も向ける」行為で嵐の過ぎ去るのを待たざるをえないことだってある。 因みにこのイエスのセリフは、キリスト教的愛の表現として解釈されているが、正しい解釈ではないだろう。田川健三氏の指摘するとおり、いやでもこういう態度を取らざるをえない者の「屈従せしめられた日常生活の憤りとうめき」としるべきであろう。

 そして、メメットのセリフから我々は彼のくやしさ・哀しみ・憤りを知ることができる。必要とされるのは、決して名セリフとして「固定」することではなく、その彼の「くやしさ・哀しみ・憤り」に共感し、共有することである。


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