権力者は常に、「そのように定め、そのように行え」と生活の隅々まで民衆を管理し、「定め」に従わない者あるいは従えない者にも、執拗にそしてしばしば暴力的に説明を求める。しかし、人生には説明できない事だってある。
そういった場面で、憤りを爆発させることができず、屈折した屈従の態度をとらざるをえない事がある。時には「一方の頬を殴られたら、他方の頬も向ける」行為で嵐の過ぎ去るのを待たざるをえないことだってある。 因みにこのイエスのセリフは、キリスト教的愛の表現として解釈されているが、正しい解釈ではないだろう。田川健三氏の指摘するとおり、いやでもこういう態度を取らざるをえない者の「屈従せしめられた日常生活の憤りとうめき」としるべきであろう。
そして、メメットのセリフから我々は彼のくやしさ・哀しみ・憤りを知ることができる。必要とされるのは、決して名セリフとして「固定」することではなく、その彼の「くやしさ・哀しみ・憤り」に共感し、共有することである。