女 「少しは私が好き?」

男 「それ以上だ」

「クライング・ゲーム」より


 中学生か高校生の頃か忘れてしまったが、テレビで放映された映画の場面で同じセリフがあった。丘の上で並んで座った恋人二人。

 「少しは私のこと愛してる?」

 「ノー」

 「……」

 「ノー、とても愛している」

 映画の題名も内容も忘れてしまったけれどこの場面は鮮やかに覚えている。恋の経験のなかった当時の私だったけれど、恋心を告白した時こんな風になればいいだろうなあと思った。しかし私の場合、後年何度か恋をしたが、どれもクライング・ゲームだった。「熱しやすく冷めにくく振られやすい」ことが私の性(NATURE)となった。

 恋は、私の個人的体験を語るまでもなくクライング・ゲームなのだろ。映画のオープニングソングは「男が女を愛する時、その愛が深ければ深いほど、女は男に悲劇をもたらす」と歌う。エンディングソングの歌詩も「女でいるのが辛い時もある。一人の男に全てを捧げてしまうから。たとえ君が傷ついても、男はついつい遊んでしまう」といった内容だ。そしてテーマソング「何度も経験したの、涙のゲームを。甘い口づけで始り、その次にあなたのため息。そして私がふと気がつくと、サヨナラを言うあなた」

 しかし、「クライング・ゲーム」は題名に反し、恋の成就を描いている。女デイルが去って行く男ジミーに「私は私でしかいられないの」と涙で訴える場面がある。デイルは、何度クライング・ゲームを経験しようとも同じようにしか相手を愛せない。それは悲しい人間の性(NATURE)なのだ。ジミーだって同じだ。「俺は子供の頃は子供らしく考えてた。でも大人になり子供らしい考えを葬った」と聖書の言葉を引用し冷酷なテロリストであろうとするが心優しい彼の性(NATURE)は変えることはできない。追って来たデイルの涙をジミーは拭いてやる。

 「何をしているの」「分らない」と二人の会話の後、冒頭のセリフが続く。

 自分の持つ性(NATURE)のままに愛して恋が成就するのは稀なケースだろう。男ジミーが愛した女デイルは実は男だったという状況ではなおさらだ。ジミーはその事を知って吐き気を催すほどノーマルな男だ。しかし二人の恋は成就する、セックス抜きで。愛する相手と肉体的にも結ばれたいと思うのは自然の欲求だ。そのことで初めて満たされた気持ちになるものだ。しかし、二人は互いの性(NATURE)を受入れ肉体的に結ばれない切なさに耐える。彼等はそれでも満たされているのだろう。心に残る純愛ドラマである。


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