別の病室では、働き盛りの2児の父・野口さんが妻に付き添われ入院する。池田さんは、長男の嫁に付き添われ別の病室にいる。夫を亡くし、苦労しながら3人の子供を育て上げ、やっとのんびり暮そうしいていた矢先の入院である。
彼等はガンで死にゆく人々である。彼等の絶望、いらだちにもカメラアングルは固定されたままである。見る者の感情移入は拒否される。映画という媒体は本来、疑似体験という感情移入を通して題材と観客に直接的なつながりを与えるものであるが、監督市川準は意識的にそのスタイルを拒否している。
映画は、感情移入しやすい代りに映画館を出れば、それまでという一回性の危険もある。監督は、その危険性を排除しているのである。感情移入を拒否されることにより、見る者は、自分自身に対峙することになるのである。
そして、死とは、川村さん、野口さん、池田さんや医師・看護婦といった医療スタッフのものではなく、死に繋がる生を今生きる私たち自身の事実であることを知るのである。
監督は、病室の淡い映像の間に、我々の日々の暮しそして四季の移ろいを挟み込む。それは出勤風景であり、宴会の場面だったり、山里の雪景色といった我々がいつも目にする風景なのだが、その風景がとても愛しく思われる。ただ今生きている事自体がひとつの奇跡であり、神の恩寵だと感じられるのである。死によって我々はそのことを知るのである。
ガンを告知された野口さんは、死を迎える直前、少し照れながら冒頭のセリフを我々に残してくれる。死にあって、生への執着(残る妻子への思い)にいらだち死を拒絶して生きるのは、愛ではなく、死にあって、死を受入れ生き抜くことが愛だと野口さんは言っていると私には思われた。その意味で、病院とは、「よく生きるための場所」なのである。