東京通信第7信


 先日の東京ご出張では、いつもながらのこととはいえ、すっかりご馳走になってしまいました。今回、妻まで呼んでしまって、図々しさに輪をかけたのではないかとすぐに後悔したのですが、今はそのことよりも、女性抜きの席で女性を肴にして酒を飲むという最大の楽しみを奪ってしまったのではないかと、密かに危惧しています。

 それはさておき、ご一緒させていただいた『あこがれ美しく燃え』は、ずいぶん久しく忘れていた「あの頃」の気分に、どっぷりと浸らせてくれた映画でした。あまりに若くして女性を知り尽くすのも不幸だなあ、と思いましたが、それが「知への愛」に向かうきっかけになるのなら羨ましいと思わないでもありません。「あの頃」のぼくを蹂躙し尽くしたのは女性教師ならぬただの「教師」であり、それはぼくを「映画への愛」に向かわせてしまったのですが、知へ至る道はそこにも開かれていたのだと、改めて気づかせてくれた映画でした。実は先日もこれと似たような経験があり、それは「あの頃」に見た『パピヨン』(シネ・ラセットで4月上旬までレイト上映)の再見というものですが、ニュープリントという意味も含め、色褪せない、色褪せさせないという映画の力を感じさせられているこの頃です。

 二日後、『奇跡の海』を渋谷のシネマライズで見ました。『ヨーロッパ』『キングダム』などで知られるデンマークの監督ラース・フォン・トリアーの、カンヌ審査員グランプリ受賞作です。
 スコットランドの海辺の寒村。教会の厳しい審議のすえ、よそ者ヤンとの結婚が認められた地味な娘ベスは、披露宴の途中、自らヤンをトイレに誘って処女を失い、激しい性愛に目醒めます。しかしそれも束の間、海底油田で働くヤンは再びヘリコプターで出発し、ベスは公衆電話にかかってくるヤンからの電話をひたすら待つ日々。教義により鐘もなく、女性の発言も一切認めない厳格な教会で、ベスは独り、自問自答による奇妙な神との対話を行ないます。「早くヤンを返してください」「本当にそう望むのだな」。それからほどなく、油田で石油の突出事故が起き、全身不随となったヤンが村に運ばれてきます。自分の祈りのせいだと、許しを乞うベスに、ヤンは苦しげに「愛人をつくれ。その様子を俺に話せ。それが俺を救うことになる」と喋ります。ヤンの容体が急変するたび、ベスは男と関係を持ち、そのたびヤンは不思議と一命をとりとめるのです。しかしついにヤンの容体が絶望的と知ったベスは、一度は命からがら逃げ出した、サディストたちの巣窟である沖の船に再び向かいます。ベスがぼろきれのようになって病院に運ばれ、息絶えたとき、その「奇跡」は起こります。
 監督自ら「シンプル・ラヴ・ストーリー」と呼ぶように、非常に宗教的な設定でありながら、ベスとヤンの深い心の結びつきに焦点があてられています。また、全編手持ちカメラのみの撮影(ヴィム・ヴェンダース作品の常連ロビー・ミュラー)という徹底した手法を取ったことで、この種の映画にありがちな、冷たく突き放したような印象に陥ることなく、時にブレたり、焦点が合わなかったりするカメラの目は、ホームムービーのような気安さを観客に与えます。
 デンマーク映画の先達に、サイレントの『吸血鬼』で有名なカール・テオドール・ドライヤーがいて、彼の『奇跡』という作品への、これはオマージュであるようです。ドライヤーの『奇跡』は、「自分はキリストの再臨である」と信じて狂人扱いされている農家の息子が、信心に名を借りて隣人とのいさかいに明け暮れる親兄弟を嘆き、そのなかでただひとり篤信家だった兄嫁の死を悼んで彼女を蘇生させる、という物語です。
 無辜の人間が起こす奇跡、という点は非常によく似ていますが、ドライヤーの『奇跡』が、奇跡を示さなければ神を信じない人々への絶望に蔽われていたのに対し、この映画は、ベスの壮絶な自己犠牲にかかわらず、ラストシーンの鐘の出現があまりに安直すぎる気がします。暴行されて顔もすっかり歪んでしまったベスが、「ヤンは助からないだろう」という絶望的な言葉を聞いたまま死んでゆく、そこまでのところで、この映画の「奇跡」は実現されていたと思うのですが。

 『リディキュール』Bunkamuraル・シネマ。
 パトリス・ルコント監督の新作は、がらりと変わって、18世紀、ルイ16世治下の宮廷を舞台にしたコスチューム劇です。地方貴族の青年ポンスリュドン(シャルル・ベリング)は風土病に苦しむ故郷を救うため国王に潅漑事業を進言しようと、持ち前のエスプリを駆使し、拝謁のかなう地位にまでのぼりつめますが、エスプリの応酬が人命まで奪うことに虚しさをおぼえ、故郷に帰ります。しかし、時はフランス革命前夜、彼は決して敗れたわけではありませんでした。
 「リディキュール」とは、滑稽者・滑稽な、といった意味だそうで、劇中、エスプリの使い方をあやまってこの烙印を押された者がたちまち政治生命を失うという場面が何度も出てきます。エスプリのわからぬ馬鹿者、といったほどのことのようですが、ポンスリュドンを陥れた権力者の神父が、エスプリの度を過ごして国王の逆鱗に触れる場面を観ていると、「越えてはならぬ一線」といったニュアンスもあるような気がします。体制は変わっても、この言葉に対する厳しさの伝統だけはしっかり受け継がれていて、さしづめ、そのことをもっともよく伝えるのがルコントの映画ではないでしょうか。今回、初めて脚本を他人に任せたルコントですが、ひさびさに彼らしい作品となって、アカデミー外国語映画賞にもノミネートされました。出演は他に、ポンスリュドンを誘惑するブラヤック伯爵夫人にファニー・アルダン、ポンスリュドンの庇護者ベルガルド侯爵にジャン・ロシュフォール、侯爵の姪で、ポンスリュドンの恋人マチルドに『タンゴ』のジュディット・ゴドレーシュなど。ベルガルドが生理学者で、マチルドが発明家という設定あたりにも、心憎さを感じます。



97/5/30消印

 


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