心に残る映画29「セッション(原題:WHIPLASH)」


 この作品、余計なエピソードなんかなくて本筋だけでぐいぐい魅せてくれる。その内容だけでなく構成が骨太でしっかりしていて、う〜ん面白かったと満足させられる作品です。
 主人公のアンドリュー・ニーマン(マイルズ・テラー)は19歳、バディ・リッチのような「偉大な」ドラマーになることに憧れ、アメリカで最高の音楽学校、シェイファー音楽学校へと進学しています。そんなある日、ニーマンは鬼教師テレンス・フレッチャー教授(J・K・シモンズ)の選抜音楽隊「スタジオ・バンド」にスカウトされます。


 鬼教師フレッチャーの指導はまさしく、映画の原題、Whiplash(鞭打ち)の表現がぴったりの苛烈なものです。平手打ちが飛び、練習曲「Whiplash」を演奏している最中に椅子が投げつけられます。彼の言い分はこうです。「自分が学生を殴るのは、彼らにジャズ界の伝説になってほしいと願うからだ。偉大なミュージシャンを育てることだ。かつて、ヘマをやらかしたチャーリー・パーカーに、ジョー・ジョーンズはシンバルを投げつけた。しかし、それがパーカーの克己心に火をつけ、彼を偉大にした。」


 それまでのニーマンは、父親と映画を一緒に見たり、以前から気になっていた映画館の受付のバイトの女の子をやっとの思いでデートに誘うような、内気で気弱な青年として描かれています。ところが、フレッチャーの苛烈なしごきが始まる段になると、ちょっと傲慢じゃないかと思えるまでのニーマンのタフな面が描かれます。
 まずは、ニーマンが実家に帰り父・叔父叔母・従兄弟たちと会食をするシーン。大学での活躍を嬉しそうに自慢げに語る従兄弟達に、音楽学校に入学した一族の変わり種ニーマンは「どうせ音楽なんて、人それぞれの(曖昧な)評価で決まる勝ち負けのない(生ぬるい)世界だ」と馬鹿にされます。これに対してニーマンは、たんたんと「どうせお前らはプロにはなれない。自己満足はお前たちの方だ!」と言い放ちます。甘いマスクに似合わないニーマンの言葉にびっくりさせられると同時に彼の自信と覚悟を知るシーンです。


 次に、ドラムの練習に専念するため、つきあい始めたニコル(メリッサ・ブノワ)に別れを告げるシーン。「僕はドラムのことしか考えられない。当然君とも連絡は取れない。次第に君は構ってくれない僕に不満を抱く。そしてドラムのことを悪く思い始める。となるとお互いに衝突して互いに不快な思いをしてしまう。そうなる前に別れた方がいい。」と平然と一方的に伝える。そしてストイックに血の滲むような練習に没頭する。
 私自身は、ごく平凡な人間で特に音楽の資質には欠けるのだけど、一流のプロになるためにはあんな文字通り血の滲むような努力が必要なんだ、そしてそれに耐えるだけの精神と肉体のタフさが必要なんだと納得させられました。しかし同時に、天才あるいは一流の人をそれに駆り立てるもの、一所懸命になれるその理由はなんなのだろうと考えさせられます。平凡な人間には立つことの出来ない高みから見えるものとは何なのだろう?ささやかな「グッド・ジョブ」に満足している者と違う人生の感動を味わえるのだろうか。その答えは最後に用意されてます。


 次第にフレッチャーの指導は、狂気じみてきます。紆余曲折あって最後のJVCのコンサートシーン。ここで、「指導」ではなく、明らかにフレッチャーの意趣返しが行われます。(この場面は解釈が分かれるところだと思いますが、そう解釈することで、最後のシーンはより感動的なものとなります。)ニーマンをコンサートに出演させたうえで、ニーマンに知らせず曲目を変更し、楽譜も渡さず、指揮を始めるフレッチャー。当然ニーマンは適当なドラムしか叩けません、ニンマリのフレッチャー。ニーマンの音楽生命は完全に断たれたかと思いましたが、これに屈しないニーマン。フレッチャーにしごかれて得たタフさゆえんです。
 ニーマンはここで、いきなり激しくドラムを叩き始め、「キャラバン」をやるのだとベースにリズムの催促をします。凄い迫力です。まさに鬼気迫る演奏シーンが展開されます。その完璧なニーマンの演奏に圧倒されて、フレッチャーも思わず指揮を執り始めます。そうして二人の天才のぶつかり合う「セッション」が続いて、二人の息がぴったりあったところで曲のエンディングとなります。普通ならここで観客のスタンディングオベーションと鳴り止まぬ拍手で映画のエンディングとなるかなと思いますが、それはありません。このシーンで監督が言いたかったのは、対立する二人だけど「高み」に達した天才二人だけが理解し、感じることの出来る純度の深い感動が存在するということではないでしょうか。



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