心に残る映画22「インターステラー」


 SF作品では、「スター・ウォーズ」のような冒険活劇も好きだが、「2001年宇宙の旅」のような科学的に検証された描写に基づく作品、それは同時に「哲学的」な作品になることが多いのだが、そういった作品も好きだ。今回見たのは後者のタイプの作品、「インターステラー」。惑星間航行という意味。近未来、異常気象により地球規模で植物の枯死が進行し、人類は滅亡の危機に晒されているという設定。そんな状況下、秘密裏に復活したNASAにより別の銀河に人類の新天地を求めるプロジェクト、ラザロ計画が進行していた。導かれるままに、そして家族を守るため元宇宙飛行士クーパー(マシュー・マコノヒー)は、この計画に参画することになる。


 169分という3時間近くになる長尺の作品なのだけど、退屈せず眠くならず最後まで見ることができた。でもちょっと突っ込みたくなるところ、というか私の科学的知識不足のせいで説明を求めたいところがいくつかあった。
 ワームホールを使って星間航行するのだが、その後でも地球とビデオレターで通信している。そんな事できるのか?
 ワームホールを通り抜け水の惑星にたどり着くのだが、その惑星は超大質量ブラックホールガルガンチュアのまわりを公転しており、水の惑星での1時間は地球の7年間に相当する。超重力が時間の流れを歪めているという説明なのだが、そんな超重力の場所に果たして降り立つことが出来るのか?
 続いて降り立った氷の惑星、ここで冷凍睡眠から目覚めたマン博士(マット・デイモン)の行動が不可解。一人だけで生き延びようと、クーパーたち仲間を裏切る行動をとる、地球に間違った情報を送りつづけたという負い目を差し引いても不可解だ。


 そして何より不可解なのが以下の点。ブラックホール内部の特異点のデータを収集することに成功し、ある方法によりクーパーはそのデータを娘に送信することが出来た。その結果娘マーフは重力問題の解を見つけることが出来、スペースコロニーの打ち上げに成功という結末。だが、そのスペースコロニーは土星の軌道上にある。この宇宙空間に作られたスペースコロニーを見ていると、そこまで出来るのなら環境の悪化した地球上に同じコロニーを作ることも出来るのでは?むしろそっちの方が簡単ではないかと思う。そもそも別の銀河の地球型惑星に移住する計画ではなかったのか?前半に描かれる地球の状況が深刻に描かれていないのでなおさらそんな思いを強くする。


 と色々疑問がわくのだが、個人的には興味深く見ることが出来た。なにより映像が美しい。見とれてしまう。
 そして、やはりスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』を意識して見てしまう。『2001年宇宙の旅』がモノリスに象徴される人類よりも遥かに高度な知的生命体=神が地球人に働きかけ、人類を進化させてきたという内容だったが、『インターステラー』の場合は人類を導くのは遙か未来の人類なのである。
 劇中で何度も引用されるディラン・トマスの詩が印象的である。「穏やかな夜に身を任せるな 老いても怒りを燃やせ、終わりゆく日に 怒れ、怒れ、消え行く光に」というこの詩は、たぶん神の救済などに望みを託すのではなく、人類の運命は人類自身、己自身が最後まで運命に抗い切り開いていくものだという思いを託した詩なのだろう。


 私は映画を見るといつも自身の関心に引き寄せテーマに矮小化してしまう癖がある。人生の終末期を迎えて「穏やかな夜に身を任せ」て消えていきたいと願う自分を見て「それでいいんだ」と自身に声をかける私がいる一方で、身の回りや世の中の理不尽な状況を見て、老いて自由なんだからこそ、誰からも追い込まれず運命を自ら切り開いても「いいんじゃない?」と思う私もいる。六十にして惑う。



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