心に残る映画11 「ビフォア・サンライズ」「ビフォア・サンセット」「ビフォア・ミッドナイト」


 「ビフォア・サンライズ」「ビフォア・サンセット」「ビフォア・ミッドナイト」の3連作は、列車の中で偶然出会った一組の男女の約20年にわたる物語です。1995年の「ビフォア・サンライズ」の9年後に「ビフォア・サンセット」が製作され、更に9年後の2013年に「ビフォア・ミッドナイト」が公開されています。

 まず第1作目の「ビフォア・サンライズ」。セリーヌ(ジュリー・デルピー)は、ソルボンヌ大学で文学を専攻するパリジェンヌ。1995年6月、祖母の見舞いの帰り、ブダペストからパリに向かうユーロトレインの中で、若いアメリカ人ジェシー(イーサン・ホーク)に出会います。ジェシーはスペインに住む恋人と彼自身は思い込んでいた女性に会いに来て婉曲に振られて傷心旅行の最終日、翌日ウィーンからニューヨーク行の飛行機に乗らなければならない。セリーヌも半年前に恋人と別れています。
 視線が合った時から互いを意識する二人。ドイツ人夫婦の喧嘩を逃れて、列車のレストランに逃げ込んだ2人は、幼い日の思い出などから始まり会話が弾む。弾むというか、会話が噛み合い果てしなく続く。会話は知的で詩的で瑞々しい。3連作を見終えると、意味深長と思えるなセリフを以下に紹介します。

セリーヌ:「私の祖母は誰が見ても平凡で幸せな妻だった。でも話してくれたの。一生心の中で別の男を愛していたって。なのに諦めたなんて哀れだわ。でも祖母の情熱を知って感動したわ。」

ジェシー:「それで良かったのさ。その男と結婚してたら失望してたさ。」
ジェシー:「良き夫、良き父になりたいと思ってる。人を愛する自信はある。でも本当は心のどこかで何かを成し遂げて死にたいと思っている。」

セリーヌ:「もしもこの世に神がいるならば、それは人の心の中ではない。向き合う人と人との間の僅かな空間にいる。」

 ジェシーって確か23歳の設定。にやけた頼りない風情なのだが、青年らしい野望も持っている。また、祖母の葬儀の朝ホースで水撒きをしていると、朝日の向こうに祖母が笑って立っていたというような思い出話をさらりとできる青年なのだ。セリーヌも23歳、瑞々しくジェシーより知的で、するどいけど柔らかい感じもあって、そして自然体。魅惑的な女性です。
 別れのウィーンの駅についても二人の会話は続きます。「明日の朝まで一緒にウィーンの街を歩かないか?」と想いを告げるジェシー。セリーヌも同じ気持ちだった。ウィーンの駅に降り立つ二人。石畳の街路をさまよい、教会に立ち寄り、レコード店に入ってはしゃぐ二人。大観覧車のあるあの有名な遊園地で手を取り合いキスをする二人。水上レストラン、古いバー、不思議な女ジプシー占い師、川辺の即興詩人にも出会う。

 どれも印象に残るシーンなのだけれど、なるほどこういう手があったのかと監督の技量に感心させられるというか、微笑ましいシーンを一つ紹介。カフェに入りお互いが旧知の同性の友人に電話をかける芝居をするシーンです。互いが友人役になる。友人だからあけすけに話せる。今日知り合った互いのことを友人に話すことで相手への想いを素直に告白するシーンです。
 ぐっと距離が縮まる二人だけれど、別れの時間は近づいている。ホテルに泊まるお金のない二人は公園で抱き合って夜明けを迎えるのだけど、再び会うことのない一晩だけの奇跡を願う二人はセックスを避けようとするけれど、、、。体は繋がりを求め合う。別れのウィーンの駅。二人はさよならが言えない。結局「半年後の今日、ここで会おう」と約束してセリーヌを乗せた列車は出ていく。


 映画のラスト、早朝のウィーンの街が、二人の歩いた街が、再び映し出されていきます。普通はここで映画のシーンを回想するのだろうけれど、私は40年前の自分が過ごした人生の美しい夏の季節を思い出していた。とぎれとぎれですぐ消えてしまいそうになるけれど何かに触れた時繰り返し蘇る美しく儚く懐かしい帰りたい風景を思い出していた(でもそれは記憶の彼方に移ろう断片故に新しい物語を紡ぐことはできない)。何を夜明けまで毎日語り合っていたのだろう、あの頃はいつも祝祭だったように思える。個人的にはそんな想い触発させる作品でした。
 第2作目の「ビフォア・サンセット」は、小説家となったジェシーがプロモーションのためヨーロッパ各地を回り、最後パリのとある書店でサイン会をしているシーンで始まります。二人の別れから9年経っています。
 再開した二人、9年も経過しているのに幼馴染のように自然体の会話が進みます。相変わらず会話が噛み合っていてどんどん会話が進んでいく。そういった関係ってあるんですね。そんな中でやはり二人の関心は、半年後ウィーンの駅に行ったのかどうか。
 セリーヌは祖母の葬式が重なり行けなかったことを打ち明ける。ジェシーは相手を気遣い「自分も行けなかった」と告げるが、「私は行きたかったけど祖母の葬式で行けなかった、あなたは何故行けなかったの?よっぽどの理由があるはずよね」と詰め寄られ、ジェシーは本当は約束どおりウィーン駅に行ったことを告白する。セリーヌもジェシーの事を忘れられずニューヨークまで行きしばらく生活していたと告げる。
 ジェシーのニューヨーク行の飛行機の出発までのわずかな時間パリの街を二人は歩き、セーヌを船で下り、ハイヤーに乗継ぐのだけど、その間二人の会話は途切れなく続きます。


 セリーヌは、大人の女になり少しやせている。否やつれているのかもしれない。環境団体の仕事をしていて少しエキセントリックになっている。その後幾度か恋をしたけれど、自分と別れた男はいずれもその直後、別の女性と幸せな結婚をしていることに釈然としない気持ちを抱いている。そのせいもあって今付き合っている男性とは距離を置いて付き合っている。ジェシーも結婚をして子供も一人いるが、妻のことを「誠実で真面目で知的な人。美しい人だよ。」といいながらうまくいってないことを打ち明ける。
 互いにそういった今の状況にいたった理由をうすうす感じている。互いに運命の人と出会ったことが忘れないのだ。ハイヤーを待たせてセリーヌを自宅まで送るジェシー。セリーヌが部屋で自作のシャンソンを歌うシーンがあります。ジェシーへの気持ちを込めた歌詞です。これがなんとも良い曲に仕上がってますが、その後の二人の会話も大人の会話として面白い。


ジェシー:「名前のところを変えて、別の男にも歌うんだろう?」
セリーヌ:「そう ばれた」
ジェシーがツイストぽい踊りを、ちょっと誘うような笑みを浮かべて、気持ちよさそうに踊ります。そして次の会話が続きます。

セリーヌ:「乗り遅れるわよ」
ジェシー:「わかってる」

 そこで映画のラストとなります。その後どうなるのか、次回作へのつなぎとなるシーンでした。
 第3作目は、「ビフォア・ミッドナイト」。更に9年が経過している。ジェシーとセリーヌは結婚して41歳になっていて、双子の可愛い娘とパリで暮らしている設定(後半明かされるのだが、結ばれた二人はNYで2年間過ごし、セリーヌの妊娠を機にパリに移り住んでいる。小説家のジェシーはどこで暮らすのも書く場所さえあれば自由なのだ)。そう言えばセリーヌの腰回りはふっくらして腰のくびれもなくなっているかなと思う。個人的には、サンセットの頃の少しやつれたセリーヌよりも魅力的に思えるのだが(ジェシーもそう思っている)、セリーヌ自身は気にしている。


 物語は、知人に招待されてギリシャの南ペロポネソスで6週間のバカンスを過ごした最終日の前日、シカゴから呼び寄せた息子ハンクをジェシーが空港に送りにきたシーンで始まる。「人生で最高の夏だったよ」とハンクス。親子の中はうまくいっているのだが、ちょっとひ弱に見える息子もあと数年で大学に行き親離れする大切な時期息子のそばにいてやりたいと思う気持ちが募る。
 空港ビルを出ると、セリーヌがスマートフォンで話している、車中には双子の娘が疲れて眠っている。ここから前2作と同様に二人の掛け合いの会話劇が始まります。セリーヌはNPOの環境活動家として活躍しているが限界を感じていて政府の機関への転職を勧誘されていることをさりげなく話す。
 こんな風に二人の置かれた今の状況をさりげなく映画の冒頭で描く監督リチャード・リンクレイターは、主演の二人ほど話題にならず有名ではないのだけど、その力量は見事だと思います。

 その後、別荘に帰った後も、二人そしてランチを伴にする別荘の老若男女の住人たちも加わり会話劇は続くわけですが、知的かつセックスの話題など赤裸々な男女の本音の会話も凝縮されていて、頷けることが多く興味津々で見入りました。その脚本は主演の二人と監督の合作だそうですが、そのせいもあって映画自身が妙にリアルな感じがしました。
  その後二人は、ギリシャ最後の夜ということで友人の配慮もあって二人だけでホテルで過ごすことになります。ホテルへの道を手を取り合い歩きながら二人の掛け合いは続きます。しかしジェシーがシカゴで暮らすことの提案をさりげなくしたあたりから二人の会話がおかしくなります。夫婦ケンカの様相を呈してきます。



 ホテルに入ってからもシカゴ移住の話になると、セリーヌは今まで溜めていたジェシーへの不満をぶちまけます。自分は子育てのために自分の人生を縛られていた、この6週間のバカンスの間も貴方は勝手気ままに執筆が出来ただろうけど、自分は家事や子守に追われて何も出来なかった、政府機関への転職の絶好のチャンスをあなたは奪うのと不満をジェシーにぶちまけます。
 友人が用意してくれたホテルにも不満をぶつけ、最後にはあなたのセックスはシンプルすぎると不満を言い、果ては、「エミリー」からの夫へのメールを一字一句暗誦し(女性って恐ろしいと思いました。携帯メールをチェックして一字一句覚えているのですね)、過去の浮気を攻めたてます。
 対するジェシーは、(私は男なのでジェシーの肩を持って書きますが)彼女の言い分に丁寧に答え、「君が正しい、もうやめよう、君を丸ごと受け入れるよ。今のままでいい、愛してる」と和解を求めるのですが、ちょっと感情的になったジェシーが放った言葉に、セリーヌは「もう愛していない」と言い放ちホテルを出ていきます。二人が知り合うきっかけとなった列車でのドイツ人夫婦激しい口論がデジャヴとして脳裏に現れます。
 ここで、私が思い出したのは、オードリー・ヘップバーン主演の「いつも二人で」という映画。倦怠期を迎え離婚を考える夫婦が車で旅をするロードムービーです。同じ道を若い頃ヒッチハイクの旅をした二人、その回想シーンがつなぎとなって物語は進んでいきます。若い頃の二人が、ホテルのレストランで黙って食事をする中年のカップルを見てヘップバーンが夫に聞く。「あの二人は何かな?あの他人のような二人は?」夫が答える。「夫婦(married people)?」。現在の二人が奇しくも「married people」となっている。


 夫婦関係って、たとえ運命の人同士のカップルであっても、結婚後しばらく経つとどこも同じなのかな?って考えさせられる。ただ冷めた夫婦関係の態様は、「ビフォア・ミッドナイト」と「いつも二人で」とでは全く違っている。方や激しい口論の二人、方や黙々と食事をする二人。まだ激しい口論の態様の方が会話があるぶん救いがあるのかもしれませんね。日本人の既婚者の多くが、我が家もそうであるように「黙々と食事をする」関係のように思えるのですがどうでしょう。


ただ、ジェシーとセリーヌはその後ジェシーの行動により(私にはたぶん出来ないと思う)危機を脱します。そして「いつも二人で」の二人も笑顔を取り戻します。後者の二人の方はどうやって笑顔を取り戻したのか思い出せない。今度ビデオショップで探して見てみようと思ってます。

 次回作があるのかどうかわからないけど、「Before the death」を期待します。

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