経ケ森203m
護摩ケ森170m
岩子山181m


GPSで記録したトラックルート。大山寺を起点として三山を往復した。高浜あるいは梅津寺へのルートも整備されている。

以下大山寺の概要


大山寺駐車場の手前にある仁王門、駐車場の手前だったので自分で撮影出来なかったのでwebから拝借。納経所
参道の脇にある民家なのだが、日を決めてお遍路さんの休憩所として提供しているようだ。四天王門に続く石段
四天王門を本堂裏から撮影した四天王のひとつを撮影、顔が白く塗られている。

 本堂、桁行7間、梁間9間の入母屋造り本瓦葺き。国宝である。小学校の遠足の時初めて訪れたが、その時の記憶では、弘法大師が一夜で建立したとの縁起を聞かされた記憶があるのだが、実際の縁起は以下のとおり。
 「真野長者は豊後(大分)でふいごの炭焼きをしていたが、神のお告げで久我大臣の娘・王津姫と結婚、いらい運が開けて大富豪となった。用明2年(587)、商いのため船で大阪に向かうとき大暴風雨に遭い、観音さまに無事を祈願したところ、高浜の岸で救われた。この報恩にと一宇の建立を大願し、豊後の工匠を集めて間口66尺、奥行き81尺の本堂を建てる木組みを整えて船積みした。順風をうけて高浜に到着、夜を徹して組み上げ、燦然と朝日が輝くころに本堂は建ち上がった。いらい「一夜建立の御堂」と伝えられている。」
 その後、天平11年(739)に聖武天皇(在位724〜49)の勅願をうけて、行基菩薩が十一面観音像を彫造し、その胎内に真野長者が瀧雲山で見つけた小さな観音像を納めて本尊にしたという。
 寺が隆盛したのは孝謙天皇(在位749〜58)のころで、七堂伽藍と66坊を数えるほど壮観であった。
 弘法大師は晩年の天長年間(824〜34)に訪れ、護摩供の修法をされて、それまでの法相宗から真言宗に改宗している。
 のち、後冷泉天皇(在位1045〜68)をはじめに、後三条、堀河、鳥羽、崇徳、近衛の6代にわたる各天皇が、十一面観音像を奉納されている。いずれも像高は150cm前後で、本尊の十一面観音像とともに国の重要文化財。本堂内陣の厨子に安置されている。
 なお現本堂は長者の建立から3度目(嘉元3年(1305)、松山城主・河野家が寄進)だが、真言密教では最大規模を誇り国宝である。

本堂を斜めから撮影回りこんで斜め後ろから本堂を撮影、石手寺の本堂と比べると風格と気品がある。周辺の雰囲気も石手寺は土産物店が並び俗ぽさがあるのだが、大山寺は厳かで端正な雰囲気がある。
太子堂鐘楼堂の地獄絵

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