波止浜沖小島芸予要塞・100mピーク


 2017年5月5日、約1年前から行ってみたいと思っていた今治市波止浜沖の小島(おしま)。日露戦争時代に要塞化された島であり、砲台跡等当時の要塞跡がほぼ当時のまま残っているのだ。体調の不調が続いていて行けなかったが、心身共に回復してきたので念願の小島に行ってみた。期待以上の遺跡だった。以下の大部分の記載は、今治市地方観光協会のHP及びIRC「知る人ぞ知る愛媛の観光地 今治編 小さな島の貴重な戦時遺産「小島砲台」から転用である。
明治中期の日清戦争(1894-1895年)の後、ロシアの東亜侵略の野望が着々と具体化していくことにおののいていた大日本帝国は、ロシアとの戦争は不回避と判断し、ロシアの海軍の進攻に備えて瀬戸内海に要塞建設を計画し、陸軍の上原勇作は芸予諸島を調査、大久野島(広島県)と来島海峡の小島に要塞を建設する。
 上原はフランスで構築を学んでおり、その調査に基づき、軍事施設配置計画が立てられ、明治32年(1899年)に建設が始まり翌年3月に完成したといわれている。
 赤煉瓦と御影石を所々に用いたヨーロッパ式の建物は、「芸予要塞」と名づけられ海の守りについていたが、東郷平八郎や秋山真之らの活躍によりロシア軍が日本に攻め入ることはなく、この要塞は役目を終え、大正15年に当時の波止浜町に払い下げられた。
因みに日露戦争(1904-1905年)では、旅順攻撃の時に、ここの28cmの榴弾砲が運ばれて使われたと言われている。

 
ルート図へ

波止浜港の待合室横に灯明台がある。「和式灯台」とも呼ばれ、明治になって洋式灯台が築かれるまでは、灯台の役目を果たした。幕末のころ、全国には100基余りあったと伝えられ、波止浜港に残る灯明台もその一つ。
 この灯明台は花崗岩の切石を積み重ねた石造灯明台で、嘉永2(1849)年の築造。塔身部には「金毘羅大権現」の文字が刻まれ、航海安全を神に託す、当時の海事関係者の思いが込められている。
今治造船の本社ドックが目の前にある。
小島行の船着き場。待合所兼切符売り場(販売機)は、灯明台の横にある。時刻表はルート図の方の載せている。当初11:10発の船に乗る予定だったが間に合わず、12:45発にした。これが正解、小島にはコンビニも食堂もない。波止浜で昼食をすることにした。近くにとても良いレストランを見つけて美味しい昼食となった。写真は来島。航路は、波止浜〜来島〜小島〜馬島となる。
小島が見えてきた。波止浜から10分程度で着く
来島大橋が見える。雄大で美しい。右に見えるのが馬島
船着場周辺の石積みの岸壁もは必見である。“布積ぬのづみ”の岸壁は、軍事要塞となる際に造られたもので、2度の芸予地震(明治38年、平成13年)でもビクともしていない、極めて頑丈な造りとなっている。
 そこから左右に目をやると、石の積み方が“谷積たにづみ”に変わるが、これは昭和に入って海岸道路を造る際に積まれたものである。
28cm榴弾砲。これは、NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」(平成21〜23年放映)の撮影のため、当時の資料をもとに忠実に復元されたものである。撮影後、松山市を経て今治市が譲り受け、ゆかりの地である小島に設置された。
探照灯跡。探照灯(サーチライト)は戦時中、夜間戦闘に備えて多くの海岸砲台に設置されていました。サーチライトは目視による早期警戒のため、または対空砲の射手がターゲットする航空機を照らすために用いられた。
御影石で両壁を囲い奥には探照灯の格納されていた小部屋がある。
右手の階段を上ると右手は少し高い外壁で広島側からくる航空機から見えにくい構造になっている。
見晴らしの良い場所です。航行する船を見張っていた?
きれいな砂浜が木陰から見えました降りてみると、とてもきれいな白い砂浜。打ち寄せた木々やゴミもない。潮の流れが速いせいだろうか?
発電所跡。南部砲台の火力発電所は煉瓦造りの平屋建てで、屋根には小さな特性の菊間瓦を葺いている。建物の土台は御影石とコンクリートで固め、超高温で焼成したうえ、釉薬をほどこしているので1世紀経っても全く浸食されていない。発電所内部
南部砲台は小島で一番南側の小さな規模の砲台であるが、軽砲二門(12cmの加農砲)で馬島から糸山までの来島海峡を防衛する配置にあった。砲台跡の下にある地下室は山の斜面を削って作られている。
地下室の右斜面を上がると砲座跡になるここには軽砲(12cm)加農砲2門が設置されていた。沖からは砲台が見えない設計になっている
ツユクサ次は弾薬庫に向かう。
 弾薬庫は、南部砲台と中部砲台のほぼ中間地点に山腹を削って建造されてる。小島の地形を活用し敵艦の砲撃を受けた場合を想定しての危険を回避した配置である。
 赤煉瓦は広島産。焼成技術が急速に進歩してドイツ製に見劣りしない上質な煉瓦である。積み方は、短辺と長辺の見せ方が違うイギリス式を採用。
残念ながら屋根は落ちてしまっている。屋根は木製だった?せい?
アザミ椿が一輪残っていた。この小島要塞跡を巡る遊歩道は椿並木となっていて季節になると椿のトンネルのようになる。
ここから奥に中部砲台がある。巨砲を据えていた砲座は2門ずつ3つ並べられていた。
中部砲台に整備された6門28cmの榴弾砲は、装匡式の固定砲架で架匡は360度の旋回が可能だと伝えられています。射程10km、1発218kgの重い榴弾をどの方向にでも自由に打つことができた。
この穴は観測所から入った指令を各砲座に伝えられる伝声管と呼ばれるもの。隣あわせの砲座と砲座をつないでいる。「ブラタモリ函館編」で函館山のも同じものがあった。司令塔に続く。
司令塔に上がる階段は傾斜がきつい。左石積みも右のレンガも100年の時を経ても亀裂ひとつない。ここを上れば素晴らしい景色がまっている。
頂上には建築物は無く山を削り込んですぐ下に電話室がある。司令塔からは360度の展望。小島で最高点の100mピークはどこだろう?。
絶景!
北部砲台跡。砲座には24cm砲が4門、軽砲4門が備え付けられていた。この周辺には、砲台のほか、発電所や探照灯、井戸があった。地下兵舎跡
火力発電所跡表側火力発電所跡裏側、煙突が見える。
この島は登山した時に見るような花が多い。ミツバツチクリ?
芸予要塞を爆撃演習跡司令塔へ
可愛い花妖艶な花
海岸道路へ現代の石積みは貧弱、亀裂が生じている。

高縄山系・瀬戸内

山歩き本編

不器男のホームページへ

inserted by FC2 system