2008.9.7

祝谷御幸町散策


散策のルートマップ、東野の自宅から石手寺を経て道後温泉駅までは省略している。
この頃歩くと膝が痛く整形外科で診てもらうとじん帯を痛めているらしい。シップで様子を見ていたが、少しよくなったので、山歩きが再開できるかどうかためしに歩いてみた。

松山神社
松山神社への登りの参道。結構きつい。
この登りが始まる前に松山藩主の墓所のある常信寺への別れ道がある。
常信寺へは何度か行ったことがあるが、松山神社へは初めて。
観光案内図を見るまで松山神社の存在すら知らなかった。
この登りの中ほどに酒井黙禅の句碑がある。
東風の船 高浜に着き五十春
「ホトトギス」同人酒井黙禅が東大医学部卒業後、
日赤松山病院長として赴任したのは大正9年38歳の時。
それから50回の春を迎えている、死の1年前の句か。
松山神社神門。松山神社は元和4年(1618年)松山藩主加藤嘉明が、
現在の伊佐爾波神社の境内に祠を建て徳川家康を祭った。
明和2年(1785年)8代藩主松平定静が現在の地に移した。
松山神社の神紋は、家康ゆかりの三葉の葵。祭神は徳川家康と菅原道真
松山神社の本殿。その造りは、本殿と拝殿の2棟を一体化し、間に、
「石の間」と呼ばれる一段低い建物を設けているのが特徴の権現造。
祝谷、御幸町方面。本殿の裏に自動車が通行可能な道があった。

一草庵
護国神社を通り過ぎ、樋又川沿いに歩くと山頭火終焉の地一草庵への
入り口がある。
「山頭火翁終焉の地」と写真では判読できるが。
種田 山頭火(明治15年12月3日〜昭和15年10月11日)は明治・大正
・昭和初期にかけての俳人。自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。
1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝と改名。
本名・種田正一
大正15年以降、雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行う。
昭和7年郷里山口の小郡町(現・山口市小郡)に「其中庵」を結庵。
昭和14年松山市に移住し「一草庵」を結庵。翌年、この庵で生涯を閉じた。
享年57。
敷地にはいくつもの句碑は建立されている。
「鉄鉢の中へも霰」「春風の鉢の子一つ」「濁れる水のなかれつつ澄む」
代表句としては、
「鴉啼いてわたしも一人」「まつすぐな道でさみしい 」
「分け入つても分け入つても青い山」
この青い山の句の版画(秋山巌作)が我が家にあり気に入っている。
山頭火は、家業の造り酒屋が父親の放蕩と自身の酒癖のため破産。
妻子を連れ熊本市に移住。古本屋を営むがうまくいかず、大正9年離婚。
妻子を捨てて東京へ出奔。その後、弟と父親は自殺。
大正12年関東大震災に遭い熊本の元妻のもとへ逃げ帰る。
その後放浪という彼の人生は高校生の頃少年漫画で読んでいた。
丸谷才一の「横しぐれ」のテーマにもなっていたなと思い出す。
庵と言っても結構広いなと思った。
趣味のない私だったら木造モルタル作り一間のアパートで十分だ。
庵の奥にある句碑
おちついて 死ねそうな 草枯るる

ロシア人墓地
ロシア人墓地のある来迎寺。来迎時には足立重信の墓もある。日露戦争当時、欧米諸国に文明国と認められたい日本は、
捕虜の扱いにかなり気を遣っていた。
そのため松山に収容されたロシア人捕虜たちは、
かなり自由な生活を許されていた。
道後温泉の料亭で宴席を開く者、自転車レースに興じる者、
中には女学校を見学して、写真を撮った者もいた。
以上同墓地の解説掲示板の要約
没年が同じ年の者が多数いるのが疑問に残った。
死んでからも生前の階級により差がつけられるのでしょうか。歩き疲れて膝が痛み出した。
気が付くと観光用のマドンナバスが目の前に。
このバスに乗り南堀端まで帰りました。

 散歩の途中、自宅から石手寺まで行く道にドラッグストアがあって、歩いていると交通整理の警備員の30代くらいだろうか、真っ黒に日焼けした男性に「こんにちは」と声をかけられた。駐車場に入ってくる車を静止してくれた時である。
 いまどき「こんにちは」と声をかけてくれる人は珍しい。歩道の電柱の根元に水筒と大きな弁当箱が保温カバーに包まれて置かれてあった。彼の妻あるいは年老いた母が持たせたものだろうか。彼はいつどこでその弁当を食べることができるのだろう。
 夕方家に帰り、暗くなってから用があってそのドラッグストアに行くと彼はまだ交通整理の仕事を続けていた。
 真面目に一生懸命働く、やさしい人がその家族とともに幸せになれるような社会であってほしいと強く思った。
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