2006.7.15

道後色町界隈放浪記


1 ネオン坂入口
 道後温泉本館に向かって右の坂道を登ると、左手にネオン坂歓楽街がある。1877年から1958年(売春防止法施行年)まで道後松ヶ枝町遊廓があった。その地である。現住所でいえば道後湯月町。現在の歓楽街は道後湯の町の椿湯周辺から道後多幸町のソープ街周辺に移っている。ネオン坂歓楽街は新興の歓楽街の押されてさびれる一方。でも無責任な放浪者からすると、昔の色里が偲ばれ夜の雰囲気も味わってみたい気にさせる。(その話は後半で) 
2 湯月稲荷大明神
 明治28年(1895年)、漱石は子規と連れ立ってこの色里を訪れた。「坊ちゃん」でこんな感想を残している。漱石の感想でもあるのだろう。「北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当りがお寺で、左右が妓楼(ぎろう)である。山門のなかに遊廓(ゆうかく)があるなんて、前代未聞の現象だ。」
 漱石のいう門が現在のアーチだろうか?そのアーチの門柱脇に「湯月稲荷大明神」が祀られている。入口にお稲荷様、出口というか突き当たりに時宗のお寺。どう感想を言ったらいいのだろう(これも後ほど)。
3 ネオン坂入口の家屋
 漱石のいう妓楼(遊郭)の建物の名残だろうか。映画でしか遊郭の知識はないのでよくわかりません。ネオン坂を登りつめたところに旧朝日楼という遊郭跡の建物が残っており、保存運動もあるとか。ということはこの建物は単なる旧い家屋?でもなんか風情があります。現在は普通の民家として使用されているようです。
4 やよい
 ネオン坂を上がるとすぐ「やよい」というネオンが目につく。昔はやはり妓楼だったのだろうか?売春防止法施行以降、妓楼は料亭や旅館そしてソープに変遷していったが、このネオン坂の妓楼は飲み屋やスナックになったものと思われる。でもこの昔ながらの建物の「やよい」はどんな店だったのだろう?想像がつかない。
 「やよい」の隣や向かいなどはスナック風に表をモルタル壁に改造して一時代をしのいだろう。でも今やそのスナック風の店もさびれてしまっている。
5 歯抜け状態
 ソープ(トルコ風呂)が道後にも誕生する際、このネオン坂にまず話があったそうである。ところがネオン坂の歓楽街の人たちは反対をした。
 今ソープ街は道後多幸町にある。そしてその周辺に新しい歓楽街が出来上がっている。そしてネオン坂は、見てのとおりさびれてしまって、建物自体が取り壊され歯抜け状態である。
6 旧朝日楼とBAR 姉妹
 ネオン坂を上がりきったところに右手に遊郭だった旧朝日楼、左手にBAR姉妹がある。旧朝日楼については、犬伏武彦さんの「民家と人間の物語」で知って以来はたしてどこにあるのだろう、例の道後多幸町の坂の下にも古い日本家屋があるので、あそこかなと勘違いしていた。
 今や旧朝日楼は町おこしにまで利用されているらしい。玄関らしきところには、「道後保養所」と木の看板があった。
 向かいのBAR姉妹は今も現役のスナックである。
7 BAR SISTER入口
 ネオン坂探訪は成人してからは、今回が2回目である。1回目は実をいうと、このSISTER訪問が目的であった。椿湯近くの料理屋「伊予狸」でネオン坂歓楽街で安心して飲める店を聞くと、このSISTERを友人Kが紹介してもらったので、恐る恐る入った次第である。昭和20〜30年代のスナックの実態は知らないなが、こんな風だったんだと納得した。
 店には70過ぎのおばあちゃんが一人いて、ビールを注ぎながら昔の華やかな時代の話をしてくれた。
8 宝巌寺から見下ろしたネオン坂
 右手に見えるのがBAR SISTERの建物です。この写真では分からないのですが、この建物は、「建物上部のアーチ型意匠など戦後「赤線建築」の典型的な特長をもった建物。」だそうです。ここを参照してください。詳しい説明があります。
 宝巌寺からネオン坂の全景が見通すことができます。現在でも多くの土地の所有権は宝巌寺にあると聞きます。坊ちゃんは「山門のなかに遊廓(ゆうかく)があるなんて、前代未聞の現象だ。」と憤慨しましたが、苦界に身を置いた遊女にとってただ「南無阿弥陀仏」と一度唱えれば往生し、仏になれると説いた一遍上人ゆかりお寺が苦界のすぐ近くにあることは、彼女たちにとって救いではなかったのかと想像されます。
 ただ見てのとおり宝巌寺の山門は石段の向こうに屹立しており遊女にとっては敷居が高かったかも。そんな遊女たちは、ネオン坂入口にあるお稲荷様に手を合わせていたのかもしれない。(お稲荷様が鎮座したのはどうも最近らしい。もとここには石灯籠があったらしい)
9 宝巌寺
 時宗の開祖一遍上人の生誕の地である。時宗とは鎌倉時代における浄土経の一宗派で信心のないものや下層階級のものでも等しく救われると説き、全国に救済のお札を配り、踊念仏により人々の心をとらえ、庶民に至るまで爆発的な人気を得た宗教です。開祖の一遍は寺をもたず、宗派をたてず、生涯を遊行で過ごしました。(文化愛媛22号 愛媛県文化振興財団)
 寺伝には天智天皇の四年(六六五)国司 乎智宿弥守興(おちのすくねもりおき)が天皇の詔によりて建立、のち伏見天皇正応五年(一二九二)再建され天台宗を時宗に改めた。
10 黙禅の句碑

 「子規忌過ぎ一遍忌過ぎ月は秋」 黙禅
 山門を入ると人は誰もいない。毎日観光客でにぎわっている石手寺と比べると対照的。道後の周辺にはこういった深閑としたお寺や神社が点在している。
 黙禅という俳人は知らない。調べてみると、「熊本第五高等学校より東京大学医学部を卒業し、大正9年(1920)3月松山赤十字病院長に赴任(38歳)地方医療に、地方俳句界に、大きな足跡をのこした。」らしい。
11 子規の句碑と茂吉の歌碑

  「色里や十歩はなれて秋の風」 子規
 明治二十八年漱石と共に道後に遊び、宝厳寺界隈で読んだ一句。(右の句碑)

 「あかあかと一本の道通りたり 霊剋(たまきわ)るわが命なりけり」 茂吉
 文字は茂吉の自筆。宝巌寺には茂吉の遺髪が埋葬されている。茂吉は松山に住む愛する人を訪ねて滞在したことがある。宝巌寺も二人で散策したのだろうか。そんなことを思いこの歌を詠むと、感慨が深まるのである。

12 一遍上人御詠歌
 「旅衣 木のねかやのね いつくにか 身のすてられぬ ところあるへき」 一遍上人
 正応ニ年淡路て病悩をおかし巡行した時の作で、念仏をすすめてまわるくるしみなどものの数ではないとの意が込められているという。
 一遍上人は、寺院を建立することなく、その生涯を日本全国、一 人でも多くの人々の救済を願い、念仏をすすめて歩いた。「一遍上人絵伝」の姿は乞食同然です。でもその民衆の救済を願う意思の強さと迫力は宝厳寺にある上人立像からも伺われます。
 上人は、正応二(一二八九)年に兵庫和田岬の観音堂で五一歳の生涯を閉じる。
13 伊佐爾波神社神社への道
 私は52歳、一遍上人の享年を超えていると思うと考え込んでしまう。私は未だに誰一人も幸せにはさせたことがないんじゃないか。自分さえも。
 山門を出てふと左手を見ると、朱に塗られた道が杜に続いている。好奇心の強い私はちょっと探検してみようって気にすぐなるのである。100メートルほど山道を登ると、そこは、伊佐爾波神社神社の境内だった。
(宝巌寺に関する資料はここから)
14 伊佐爾波神社神社
 道後温泉駅から真っ直ぐに東へ500mほどの参道が続き、135段の石段を登りきると境内。いつもはこのコースで参拝(観光)するので、ネオン坂のすぐ近くにあるとは以外だった。
 大学生時代友人の松山観光に付き合って来たのが初めてで、松山にこんな立派な神社があるとは知らず以外だった。梅雨の晴れ間に朱の回廊が鮮やかだった。


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