モネの庭から「たそがれ清兵衛」「壬生義士伝」そして「座頭市」
7月20日、高知県北川村にあるモネの庭を訪ねた。梅雨前線の影響で前日まで大雨だったのが、その日というかその時間だけは陽が射して、暑いけれど気持ちがよかった。モネの絵は特に好きというわけではないけれど、その絵に書かれた風景というか人の生活が好きだ。陽光の自然の中、ひなげしの花の咲く丘を散策する家族、家の前の庭で編物をする女性、、、。時間がゆっくり流れている。 また彼は絵の制作だけでなく、庭づくりに精を出し、料理もレシピが残されるほどこだわり、彼の愛した家具や食器も北川村モネの庭で紹介されている。 彼の幸せとは、ありふれた日常、身の回りの庭や家具調度品を受け入れ愛することだったのではないだろうか。ジェットコースタームービーのような劇的な人生を夢見て都会に暮らし、見果てぬ夢をハリウッド映画に現代人は求めているのかもしれない。でもそれがほんとうの幸せではないとほとんどの人は心の奥で気が付いている。それは北川村のモネの庭の参観者の多さが物語っているような気がする。 でも?我々は何時間も車を走らせ旅行者にならないとこののんびりとした美しい景色を楽しむことができないのだろうか?私の記憶の中にもこののんびりとした光景が残っている。ほんの少し前まで日本の我々の日常の生活はこの美しい光景に囲まれていたような気がする。 |
そんなことを考えていて、今年見た日本映画2作品を思い出していた。その一つが「たそがれ清兵衛」である。妻が死に、風呂にも入らず不精ひげをのばし家中の者から「たそがれ」と噂されているのを、家の面目にかかわるから後添いをもらい家を建て直せと言う本家の叔父に、清兵衛は答える。「叔父上が思うほど自分の生活をみじめとは思っておりません。娘が日々成長していくのを見るのは畑の野菜や草花が日々育っていくのを見るのと同じでとても楽しいものでがんす。」 貧しいが暖かい生活。それがほのぼのと描かれる。この風景が「たそがれ清兵衛」のひとつのテーマだと思う。 それとこの作品で印象に残るのは、多くの人が指摘する朋江役の宮沢りえの美しさである。清兵衛を迎える三つ指の美しさ、決戦に赴く清兵衛の身支度を整える際の立ち居振舞いの手際よさと所作の美しさ。そればかりではない。彼女がいると団欒が明るく華やぐ彼女の明るさ。百姓の祭りに出かけ一緒に楽しむこだわりのなさ。旧弊を押し付ける小姑に大してもはっきりノーという芯の強さ。山田監督は、男にとっての理想の女性を朋江に託して描いたのではないか。しかし清兵衛のような慎ましやかな気品のある男にはかなえられる理想かもしれない。わが身を振り返ると、身分不相応の理想かもしれない。
「壬生義士伝」は、原作を併せて読んで欲しい作品である。長大な原作から抜け落ちたエピソードを是非読んで欲しい。「壬生義士伝」は親子の情、友情そして義(正義)を描いた作品である。情を描く天才浅田次郎さんに分かっていながら泣かされる。斎藤一、次郎衛との友情、長男嘉一郎との親子の情は原作を読んで初めて納得できるものだろう。
何度読み返しても涙が込み上げてくる。ほんの百数十年前の話なのだ。わずか17才の子供が「卑すい小身者なれど、二駄二人扶持にて南部二十万石をば、たしかに背負い申したぞ」と。 そして「座頭市」。何故淀川長治さんが北野武監督を評価するのか私には理解できない。嫌いとしか言いようがないのだけれど、今回の作品は時代劇ということで何作目かぶりに見たのだけど、リズム感もない作品になっていたような気がするのだが。 |