大塚美術館で1日過ごす
写真1、システィーナ礼拝堂。正面に「最後の審判」 | 写真2、システィーナ礼拝堂。天井画「天地創造」 |
同じ礼拝堂の環境展示でも、スクロヴェーニ礼拝堂が私は好きである。この礼拝堂に入ると、ジョットの描くイコンが薄暗い空間のなかに浮かび上がる。(写真3、4参照)私は長椅子に座り、しばらく黙想する時間を得た。
写真3、一見稚拙に見えるジョットの絵は見る者の心に静けさを与える。 | 写真4、同じくスクロヴェーニ礼拝堂を反対側から撮った写真。 |
この美術館のもうひとつの特徴は、古代、中世、ルネサンス、バロック、近代、現代の代表的な作品を系統的に鑑賞できることにある。
私は、ここで30年ぶりに初恋の女性に再会できた。世界史の教科書にのっていた「春」という作品に描かれた女性である。(写真5参照)慌てていたのか写真が少し斜めになっていることをご勘弁願いたい。因みに写真を撮る時は絵画だけではなく人物をいれてくださいとの注意があったが、この写真は違反である。
写真5「春」私の初恋の女性である。ナポリ考古学博物館蔵 |
古代の作者不詳の絵から現代絵画まで系統だって絵を見て、私の印象に残ったのは、何故か古代・中世の絵だった(写真6,7参照)。唯一ボッティチェリ(写真8参照)は好きなので例外であるが。理由を私なりに考えてみた。森有正先生がこんなことを言っている。
「仕事というものはいったい誰のためにするのだろう。仕事自体のため、という人もある。自分自身のため、という人もある。どちらも決して本当ではない。仕事は心をもって愛し尊敬する人に見せ、よろこんでもらうためだ。それ以外の理由は全部嘘だ。」(「バビロンの流れのほとりにて」筑摩書房 単行本版p43)このあと森有正は中世の宗教芸術の例を示し、仕事の対象になる存在が仕事の質を決定すると書いている。
中性の作家たちは神に喜んでもらうため一心に絵を描き、古代の作家は素直に美を写し取った。しかしルネッサンス以降作家たちは技巧的には格段の進歩を遂げ、また絵を描くことにより自己表現の機会を得た。しかし自己表現であるかぎり人間(不完全な存在)としてのの迷いが生じたのではないか。彼らは仕事を見せ喜んでもらうためという素直な気持ちを忘れてはいないか。
印象派、抽象派の作家たちは出口を求めむなしく彷徨したが迷いを残している。そんな感想を私は持った。
写真6ジョットの「小鳥への説教」 | 写真7作者不明「聖ディミトリオスと並ぶ司教と行政官」何故か印象に残る絵だった |
写真8 私の好きなボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」 |