2001.5.5

(異常を内包する---「ハンニバル」「セル」「ユリイカ」)


 私の映画の原点は怪獣映画であるが、思春期に映画を意識して見始めたのは高校生の頃からで、きっかけの作品はビスコンティの「ベニスに死す」である。映画好きの友人に連れられて訳もわからず見たのであるが、マーラーの美しい旋律が印象に強く残っている。難しい主題は置くとして、内容はちょと変態ぽい映画である。(余談ですが、ビスコンティの作品の中では変態ぽい臭いのない「イノセント」が私は一番好きです。)その頃、フェリーニの「サテリコン」や「王女メディア」パゾリーニの「豚小屋」などを立て続けに「銀映」で見た記憶がある。いずれも変わった映画である。
 という訳で私の映画の出発点はちょっと変わった人々を描いた映画ということになる。最近見た標題の3作品も描かれた人物は、人食い猟奇殺人者、水死する女性を見て性的快楽を得るウイルス性分裂症患者、PTSD症状でひきこもりの兄妹。精神を病み犯罪に手を染めた人たちである。この3作品の描き方で、ある共通点に気が付いたのは私だけだろうか。映画は彼らをどこかで受容している。そして見る者も彼らを受容してしまう。少なくとも私は受容している。これは映画の魔術ではなく、私(たち)も彼らの持つ異常さを心のどこかに内包しているからではないだろうかと思った。
 
ハンニバル  ハンニバル
 前作の「羊たちの沈黙」がどちらかといえば、連続猟奇殺人犯を追い詰めていくサスペンスそしてFBI捜査官クラリスの活躍を描いた映画だったように思えるのだけれど、今回はレクター博士の活躍?ぶりに重点を置いて描かれている。ジョディー・フォスターがクラリスだったら、趣が変わっていただろうと誰しも思うことだろうが、J・ムーアの気品のある静謐な美しさも魅力的である。重厚な絵作りに溶け込んでいる。言葉を換えれば、アンソニー・ホプキンスの演技を際立たせる背景となっているように思える。いずれにしても題名が示すとおりの映画である。
 セル
 いかにもアメリカ的な映画である。人の脳の中に入っていくという発想もそうだけれど、見る者をなんだか納得させてしまう絵作り。溺死する女性を見て性的快楽を感じるサド・マゾ混在の連続猟奇殺人犯という設定。いずれもいかににもアメリカ的だなと思う。それにしてもジェニファー・ロペスはとても魅力的でセクシーであった。彼女ばかり目で追っていました。
 脳生理学の先端研究によれば、精神病の原因も生理学的に解明可能だということだけれど、治療はどうなるのだろう。映画では、最後に神が与えてくれる安息は死だと言っているような気がする。私もそう思う。
セル
ユリイカ  ユリイカ
 昔、仕事で両親に捨てられた兄弟をアパートに訪ねたことがある。何年か前両親が離婚し、父親は家を出、その後母親も愛人の元に行方をくらましていた。時々母親がお金を届けにくる時誰が来ても戸を開けてはだめと言われているらしく声をかけても戸をあけてもらえなかった。後日部屋を見て唖然とした。3部屋あるのだけれど、3部屋ともゴミ袋で埋まっていたのである。児童相談所に連絡したが、行動はおこしてもらえなかった。
 ユリイカの前半部分のなかどころ、沢井が兄妹の住む家を初めて訪ねるシーンを見てこの私の体験を思い出した。映画ではこの3人の共同生活という設定のために両親や行政の介入を作為的に消しているのだと思うけれど、現実にもそういうことってある。
 映画は、そういう構成の中「他人のためだけに生きるってことできるのだろうか」と思い言葉少なに実行する沢井とその沢井をぎこちなく受け止める直樹・梢兄妹、その3人を時間をかけ描いていく。そのことだけを描くシンプルな映画である。私はこの映画が好きである。私(たち)は猥雑な日常の中あれもこれもと様々なものに囚われ生きている。そんな自分を見直させてくれる映画だった。異常さを内包してアンビバレントに生きる私(たち)にとっても沢井のシンプルな行為は救いである。
 沢井さん死んだらだめだよ、直樹との約束があるじゃないかと心で呟いたエンドマークだった。

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